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兵庫県南部の島

昼からのウォーク 

2016年11月03日 ナビトモブログ記事
テーマ:テーマ無し

昼からは洲本市の曲田山と言う市街の南側に隣接の丘陵に沿って、江戸時代の武家屋敷の跡を、大学の先生が説明するのを聞きながらのウォーキングのグループに参加しました。

明治の初めに、武士階級も身分制度に分けられて、士農工商から華族、士族、卒族、 平民になり、卒族の身分の方が淡路島では不満が大きくなり、蜂須賀の殿様に士族にしたくれと言ったり、新政府に対して願ったりして、淡路島だけ別の藩として独立まで言ったために、士族側から弾圧されて、かなりの人が北海道の開拓に追い出されたような状態になったと言う歴史の舞台です。
大きな石がある庭は益習館と言う稲田と言う蜂須賀藩の家老が持っていた別邸を学習施設にしていた場所です。頼山陽等の進歩的な方が来ていたと言われています。
蜂須賀藩も公式な学問所を持っていて、ここは武士階級の学習施設でした。益習館は商人や農民にもある程度開かれた施設と言われています。

この庭についての他大学の先生の間違いは、大きな石は「さざれ石」とは言わないで、礫岩と言う和泉砂岩層の堆積岩で、踏み石の多くは洲本市の北部に普通にある御影石、ところどころに三波川変成岩の緑泥片岩があります。
倒幕の時代についても、天誅組との関係で、無理から淡路島の勤皇、尊王と蜂須賀藩の関係等、かなり無理に引っ付けた説明をされていたのが気にかかります。
淡路島は田舎者の天下ですから、「頼山陽は益習館に来たと言う」意見が案内したグループでは多く、「頼山陽が本当に益習館に来たのか、の日記とか文書の記述があるのか」の私の質問には、いろいろな人の関係を出して、「来た可能性がある」と言われましたが、私の疑問は残ったままです。歴史学と考古学の思想の差かもしれませんが、歴史的事実は大切にしたいもです。



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蜂須賀藩

さん

幕末に、なにか騒ぎがあったような小説を読んだ気がしますが、「お登勢」?
ダメですね、思いだせません。

2016/11/04 09:10:52

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