時期尚早

決して障害者がいなくなることはない。明日は我が身かもしれない。 

2016年07月29日 外部ブログ記事
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相模原の障害者施設で起きた事件
ネットのニュースで確認していた時は、何やらすごいことが起きてしまったんだと他人事のように思っていたこのニュース。テレビで現場での献花の場面を見て、相変わらず他人事には変わりませんが、より強く印象に残りました。犯人に対して、一切の同情の余地はありません。彼の考えたであろう世界に対しても、共感のしようがありません。


犯人の思想
彼にとって障害者は邪魔者でしかなかった。ただそれだけなのではないでしょうか。彼の中の正義として、障害者は悪であった。しかし、彼はまず障害者の定義を考えるべきであった。彼が現在、障害者として認定されている方をどうしようが、社会はまた新たに誰かを障害者として認定するものです。障害認定の基準が少々変わることはあるかもしれません。しかし、決して障害者がいなくなることはない。人間誰しもその気はあるのです。時代が変われば、自分だって障害者かもしれません。貧困がなくならない等、そういうものと一緒です。相対的な社会であるからこそ、誰かが誰かの上に立つのです。下がなければ上には立てないものです。
そこから抜け出す方法。
自分の置かれている環境を変えたい。自分の目の前にある問題を解決したい。似たような境遇にいる人達、皆と一緒に変えていきたい、変わりたいと思うかもしれません。こうした行動としてデモ活動等があります。しかし、残念ながら皆は変われない。集団のポジションを変えるということは非常に難しい。そこを動かす為には別の所を動かす必要がある。残念ではありますが、その動かそうとする集団のリーダーになる等の行為こそが、自身がその環境を1抜けする方法なのです。
犯人は、自分なりの問題解決の手段として、自身の手で障害者集団の撲滅を目指したのかもしれません。しかしながら、それは何の問題解決にもならない。現状にしか目を向けられない非常に短絡的な考えだと言えます。
明日生まれる命は障害を持っているかもしれない。こうした子供達がしっかり育つ環境作りの方がよっぽど重要なことです。生きる環境作りと共に、障害者の死に対してももう少し考えるべきでしょう。
事件は防げたのか
犯人は、もしかしたら冗談半分で言っていると思われていたり、聞く耳もたずだったりしたのかもしれません。しかしながら、少しでも一緒に考えてあげられる人がいたら、防ぐことは充分出来た事件だったのではないでしょうか。友だちは多いが、親友と呼べるような人はいなかったのかもしれません。




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