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平成の虚無僧一路の日記

新島襄と山本八重子 

2011年02月05日 外部ブログ記事
テーマ:テーマ無し



新島襄の妻は、これまた驚き、会津藩の女傑、山本八重子。
山本八重子は、会津戦争では、女ながら、男物の軍服を着て、
7連発スペンサー銃を持ち、砲兵隊を叱咤激励、指揮した
として、会津人なら誰でも知っている。開城の時、城の壁に
次の和歌を記した。
 
「明日よりは、いずこの誰か 眺むらん
          なれしお城に 宿す月影」

戊辰戦争で、父も弟も戦死。兄覚馬を頼って京都に行く。
兄の覚馬は早くから洋学と洋式砲術を学び、会津藩を洋式兵法に
改革するなど、先見の明があった。(山本家は武田の軍師山本
勘介の子孫と称している) 幕末、会津藩が京都守護職として
京都に駐留したおり、公用人として他藩との折衝にあたり、
また洋学の私塾を開いて、他藩の士も受け入れていた。

鳥羽伏見の時には、京都に留まっていて、官軍に捕えられたが、
西郷隆盛はじめ官軍の幹部にもその名を知られており、救われる。
この時、すでに失明していたのだが、山本覚馬の活躍は、明治
になってからがすごい。

失明しながらも、英語を学び、聖書を読み、キリスト教に改宗。
都が江戸に移り荒廃していた京都に、産業を起し、日本最初の
万国博覧会を開いている。京都人の信頼篤く、府議会議員に推
され、府議会議長も務めた。失明しているのにである。

そして、妹八重子が、外国帰りの新島襄に英語を習い、聖書の
翻訳を手伝っているうちに恋仲となり、新島襄と結婚する。
その新島のために、自宅(旧薩摩藩邸6,000坪)を提供して、
同志社英語学校を設立したのである。

山本兄妹がいなければ、同志社は無かった。同志社の設立は、
山本覚馬によるところが大であった。

京都というところ、保守的な古都と思いきや、京都の収入は、
ハイテク産業の方が、観光収入をはるかに上回っているとか。
京都は平安の昔から、常に日本の産業の最先端をいっていたのだ。

慶応の琴・尺八クラブ「竹の会」は、毎年、京都南禅寺で合宿し、
同志社女子大の箏曲部と交流があったが、東京の慶応は保守的で
古典曲ばかりなのに、京都の同志社は新曲ばかりで、意外に感じ
たものである。


「尺八と一休語りの虚無僧一路」のホームページも見てください。

「一休と虚無僧」で別にブログを開いています。

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