メニュー

最新の記事

一覧を見る>>

テーマ

カレンダー

月別

平成の虚無僧一路の日記

新島襄 寒梅 

2011年02月05日 外部ブログ記事
テーマ:テーマ無し



梅が咲きはじめた。新島襄の『寒梅』を 思い起こす。


『寒 梅』  新島 襄

 庭上(ていじょう)の 一 寒梅(いち かんばい)
 笑って 風雪を 侵(おか)して 開く
 争(あらそ)わず 又 力(つと)めず
 自(おのずか)ら 百花の魁(さきがけ)を占(し)む

「庭先の一本の梅の木が、風雪に耐え、笑っているかの
様に咲いている。冬の厳しさに抗しているわけでもなく、
無理に努めているわけでもなく、あらゆる花にさきがけて、
咲いている」

表面上は そういう意味だが、もっと深い意味が込められて
いる。新島は元治元年(1864年)函館から日本を脱出して
上海に行き、そこからアメリカに渡った。

新島の本名は「七五三太」。「しめた」と読む。「襄(じょう)」は、
なんとアメリカに渡る船で「ジョー」と呼ばれたから。そう
元祖「明日のジョー」だ。

アメリカで洗礼を受け、アマースト大学を卒業。日本人初の
「理学士」の学位を取得したというのだからおそれいる。
アマースト大学では、後に札幌農学校教頭となるウィリアム・
スミス・クラークから化学の授業を受けていた。「ボーイズ・
ビィ・アンビシャス」のクラーク博士は、新島との縁で 来日
したのだった。

徳川幕府が滅び、明治の世となって、明治5年(1872年)岩倉
使節団がアメリカにやってくる。新島は、使節団に面会して、
語学力をかわれ、木戸孝允の通訳としてニューヨークから
ヨーロッパへ渡った。岩倉施設団が帰国した後もヨーロッパに
残り、フランス、スイス、ドイツ、ロシアを歴訪して、帰国
したのは明治7年(1874年)。実に10年。明治維新がなければ、
彼は一生日本に帰れなかったのだ。

帰国して、最も保守的な京都で、周囲の猛反対に遭いながら
キリスト教を布教し、同志社を設立した。まさに自作の詩
『寒梅』は、文明開化に先駆けてアメリカ、ヨーロッパに
渡った自分の生き様を詠じていたのだ。

京都でのキリスト教公認、同志社の設立が、虚無僧尺八愛好家に
よる「明暗教会」設立への動きになった。明治4年に廃宗となった
普化宗だが、江戸時代禁制だった耶蘇(キリスト)教が公認されたの
だから、虚無僧も、キリスト教の教会に倣って、「明暗教会」として
申請し、認可されたのだ。これはメイアン(名案)だった?。


「尺八と一休語りの虚無僧一路」のホームページも見てください。

>>元の記事・続きはこちら(外部のサイトに移動します)





この記事はナビトモではコメントを受け付けておりません

PR





掲載されている画像

    もっと見る

上部へ