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平成の虚無僧一路の日記

仙石騒動異聞 神谷転の墓 

2016年06月30日 外部ブログ記事
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尺八古典本曲に「転菅垣(ころすががき)」という曲がある。
「転(ころ)びという手が用いられているから」とか、
「曲調が回転するように展開するから」とか、また「仙石騒動の
神谷転(うたた)が吹いていた曲なので転(うたた)菅垣」
という説もある。それで以前から神谷転に関心を持っていた。
このたび仙石騒動を調べてみて、一月寺の役僧愛?(あいぜん)が
元会津藩士と知ってびっくり。私の先祖も会津藩。会津藩のことなら
何でも知っているつもりだが、愛?のことはどこにも記録はない。
虚無僧友鵞こと出石藩の脱藩浪士神谷転が町奉行所に捕らえられた時、
愛?(ルビ:あいぜん)は、一月寺の江戸浅草にあった番所(出張所)の出役として
三度、長文の見事な上申書を奉行所に提出し、寺社奉行を動かした。
なかなかの学識と気骨があった。さすが会津藩士である。
そして、東京中目黒の永隆寺に神谷転の墓があると知ってまたびっくり。
私の叔母の家のすぐ真下。何度か前を通っていた。ここは元港区麻布にあり、
仙石家とその藩士の菩提寺だったそうな。明治35年この地に移転。
その際、仙石家の墓はすべて出石に移されて、今はない。
神谷転は事件の後、船橋清山寺の看主となり、天保14年に亡くなり、
そこにも墓がある。
調べてみると、一月寺役僧「愛?(あいぜん)は、仙石騒動の前年まで
駿府(静岡市)無量寺の看主で、天保5年(1834)千葉県船橋市の清山寺
看主に転住している。そして友鵞が捕らえられた時は、江戸浅草にあった
一月寺の出張所(番所)の役僧として奉行所との交渉役を務めた。
その後天保12年(1841)青梅鈴法寺の看主となった。
神谷転は虚無僧になって短日で上総国三黒村(現千葉県袖ケ浦)松見寺の
看主になっているから、以前から尺八に熟達していたのであろう。
幕府に捕らえられた時の肩書は松見寺の看主である。
世に一月寺と喧伝されているが、一月寺の看主は何もしていない。
松見寺の跡には愛?(あいぜん)が起草し友鵞(神谷転)の筆になる石碑がある。
友鵞は天保12年、愛?の後を受けて船橋清山寺の看主となっている。
出石藩への復帰の話もあったが、事件の後出石藩は五万石から
三万石に減封となったことで、「旧高に復するまでは」と辞退。
また病身でもあったようで、天保14年船橋清山寺で亡くなり、
そこに墓があった。
さて、となると目黒の永隆寺の墓は、後世の者が「仙石騒動で英雄と
なった神谷転」の名を寺の宣伝のために作ったものか。

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