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平成の虚無僧一路の日記

幕府による虚無僧弾圧 

2016年06月27日 外部ブログ記事
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仙石騒動の裁定が下されたのは天保6年(1835年)。調査取調べは
寺社奉行吟味物調役で川路弥吉(のちの川路聖謨)が行った。
この後、天保15年(1844)岐阜の芥見村で、虚無僧同士の縄張り争いが
起こり、死者が出、幕府の取り調べとなる。
甲州の虚無僧寺明暗寺と、遠州浜松の普大寺との留場争いだった。
この裁定は弘化5年(1848)に出される。
虚無僧の本山「一月寺」まで査察がはいり、詮議してみれば
「一月寺」の看主「空翁」は 重追放の前科者でありながら、江戸に
舞い戻り看主になっていたことが発覚、「遠島」に。他もみな
「無宿人」で飲む打つ買う三昧の不貞。女犯の罪で晒しの上江戸払い。
一月寺だけでなく理光寺、慈上寺、観念寺、松岩寺の看主の愛妾までが
捕らえられ押し込めとなった。
 この取り調べの後で、幕府は弘化4年(1847)「普化宗流弊改革之儀に付き
申上候書付」を発し、虚無僧を厳しく取り締まるようになる。

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