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明智光秀、何故本能寺の変成功し敗れたのか? 

2016年06月20日 外部ブログ記事
テーマ:テーマ無し



織田信長は数々の裏切りにあってきた

用心深さから多くの謀反を跳ね除けてきた信長!
明智光秀だけが本能寺の変を成功出来た要因は、一瞬のチャンスに賭けた光秀の決断では?
光秀が、本能寺の変起こした要因は、土岐一族の再興では?
光秀より優秀な豊臣秀吉が同時代に生きたのが光秀の不運・不幸の結果『光秀3日天下』に結び付いたのでは?
BS・TBS『高島礼子・日本の古都』番組、武田鏡村(作家)記事参考&引用


































BS・TBS『高島礼子・日本の古都』番組画面引用

明智光秀が織田信長に使える迄
明智光秀、源氏の流れ土岐家で生まれるが土岐家滅亡
明智光秀浪人となり、朝倉一族の家臣となり、室町幕府将軍と知り合う
織田信長と足利将軍との結び付けで織田一族となる

明智光秀の謀反の要因(遺恨)・怨念説)
丹波八上城事件
 ☆光秀は、八上城の波多野を攻めたが、城がなかなか落ちず、生母を人質に差し出しす
 ☆秀治と波多野秀尚の兄弟に「降伏すれば、命と領土を保証する」と約束した
 ☆波多野兄弟は投降したが、信長は光秀の説得も聞かずに彼らを殺してしまう、人質の光秀の母も殺害させる
斎藤利三事件
 ☆稲葉一鉄の家臣だった斎藤利三を、光秀が召し抱えた
 ☆信長は光秀に「利三を一鉄に返せ」と命じたが、光秀が命令に従わなかったため、信長は光秀を手討ちにしようとした
恵林寺焼亡事件
 ☆武田氏に味方した恵林寺を焼き払えと信長が命じたが、光秀はその暴挙をいさめ信長の逆鱗に触れた
長宗我部の攻略事件
 ☆光秀は、長宗我との和平・連携を命じられていたが、信長は後に長宗我部を敵視し、光秀の立場がなくなった
徳川家康饗応事件
 ☆武田氏を滅亡させた後、光秀は徳川家康と穴山信君を安土城で接待する饗応役を務めた
 ☆用意した魚が腐っていたため、腹を立てた信長に饗応役を解任される

明智光秀の性格
光秀の陰湿な性格が、遺恨・怨念説が生まれたのかもしれない?
宣教師のルイス・フロイスによる報告書に光秀の性格が記載されている

明智光秀の謀反の要因(恐怖説)
佐久間父子追放から信長に対して恐怖を抱く
 ☆石山本願寺の攻略で功績がなかったとして、信長に仕えてきた重臣の佐久間信盛・信栄父子が追放された
 ☆信長に長く仕えた者ですら、失脚させられる、途中から信長に仕えたわしなぞ、いつ追放されるかわからん
領地替えの恐怖
 ☆光秀の領地、近江と丹波が取り上げられ、信長から「出雲と因幡を切り崩し次第与える」と言われた
 ☆光秀としては、出雲・因幡を制圧しても、まだ九州があり、さらに唐土への出兵もある
 ☆配置転換を繰り返さなければならないだろうか?しかも、功績がなければ追放だ

野望説(一瞬のチャンスに賭けた)
土岐一族の再興
信長の重臣で唯一、信長の近くにいたのは光秀である
秀吉(中国地方)、柴田勝家(北陸地方)、滝川一益(関東地方)、丹羽長秀(大坂方面)にいる
本能寺の変は、明智光秀がしかけた一世一代の大勝負

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