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平成の虚無僧一路の日記

山口県と虚無僧 その1 

2016年06月11日 外部ブログ記事
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現存史料の中で「虚無僧」の最古の記録は、『大内氏壁紙』と言われている。今回の旅で、山口県下関市長府にある『長府博物館』で現物を見てきた。文明18年(1486)の禁制に「薦僧、放下、猿引の事、当所併近里を払う可き事」とあり、「虚無僧」ではなく「薦僧」であった。これは 1530年頃書かれた『三十二番職人歌合せ』の「こも僧」と同じで、それより50年ほど前の記録となる。室町時代、応仁の乱で都も荒れ果て、足利8代将軍義政は政治から逃避し、銀閣寺を建てて引き籠もっていた頃。西国では大内氏が周防、長門、豊前、筑前の四カ国を支配していたが、世情不安で、よそ者の入国を厳しく禁じていたのである。尚、文明13年(1481)に一休は 88歳で亡くなっている。山口で薦僧の入国を禁止していたということは、一休の時代には薦僧が全国的に回遊していたことになる。その身分は放下や猿回しと同じ遊芸人に近いものだった。「薦(こも)むしろ」を腰に付け、野山に止宿するので「こも僧」だった。それが「虚無僧」になるのは江戸時代なのだ。江戸時代でも「薦僧、虚妄僧」と書かれていた。40年前、私が新潟を旅した時「おこもさん」と呼ばれたことを記憶している。「お薦さん」は「乞食」の別称であることを、その当時は知らなかった。私のメールは goo3360_february@mail.goo.ne.jp

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