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平成の虚無僧一路の日記

山口県と虚無僧 その3 

2016年06月11日 外部ブログ記事
テーマ:テーマ無し



「虚無僧は幕府の隠密」などとよく言われるが、そのような事実は無い。わずかに越後村上藩で、“岡引き”や“目明し”のように、役人に情報を売ることがあった程度。「虚無僧が幕府の隠密」ということが知れ渡っていたのでは、あの目立つ格好で他藩に侵入したらすぐ捕らえられてしまう。幕府の隠密どころか、幕末、京都明暗寺は、勤皇派だったのである。京都明暗寺の役僧「素行」は膳所藩士の子で、脱藩して虚無僧となっていた。勤皇の志篤く、文久3年(1863)大和の天誅組の義挙に呼応して、兵庫県生野で農民を扇動し決起している。生野には銀山があり、幕府の代官所があった。この「生野騒動」には、長州の奇兵隊も加わっていたが、不発に終わり、素行は捕らえられ、京都の六角獄に送られて、翌元治元年(1864)禁門の変が起きると、平野国臣らとともに斬首された。この禁門の変の時の、京都明暗寺の33世看主「玄堂観妙」は、元長州藩士だった。であるから、禁門の変で敗れた長州の敗残兵を匿い、その咎で捕縛され、六角の獄に入れられた。その直前には素行が投獄されていて、斬首されたのである。玄堂は、後 許されて出獄しているが、慶応3年(1867) 明治になる直前、大阪で歿している。明暗寺の最後の看主は「明暗昨非」である。この明暗昨非は、明治4年の「太政官布・普化宗廃止令」によって、明暗寺の本尊「虚竹禅師像」他 什物を、懇意にしていた東福寺善慧院に預けて出奔し、日蓮宗系の本門佛立宗に改宗した。東福寺善慧院内に虚無僧本山の明暗寺が置かれているのはこのためである。

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