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古地図と天海僧侶 

2016年05月17日 外部ブログ記事
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徳川三代を陰で操ったといわれる謎の僧・天海

数々の逸話に彩られた謎の人物
江戸時代、100年以上も生き、徳川三代を陰で操った僧侶
家康と出会ったのは70歳代で、かなり遅いです
織田信長、武田信玄など戦国時代の偉人に仕えていました
BS11(尾上松也さんの古地図で謎解き!)の番組参考&引用


















BS11(尾上松也さんの古地図で謎解き!)の番組画面引用

東京・上野公園
この地は、天海の哲学のすべてが注がれた場所です
寛永寺(比叡山)、弁天池(琵琶湖)、清水観音堂(清水寺)などの京都の町に準じていいます
上野公園の敷地内には、家康の遺言で創られた、上野東照宮があります

天海前半生時代
天台宗を学び、比叡山延暦寺、園城寺、興福寺などで学を深めました
織田信長により比叡山が焼き打ちに合うと武田信玄の招聘を受けて甲斐国に移住しました
その後武蔵国の無量寿寺北院(喜多院)に移り天海を名乗のりました

天海喜多院時代
天海が北院の住職となりました
天海は家康の参謀として朝廷との交渉等の役割を担いました
家康より日光山貫主を拝命し、本坊・光明院を再興しました
大坂の役の発端となった方広寺鐘銘事件にも深く関わりました?

天海後半の時代
危篤となった家康は、神号や葬儀に関する遺言を天海らに託す
家康死後は、神号を巡り、以心崇伝、本多正純らと争う
天海は「権現」として、崇伝は家康の神号を「明神」として吉田神道で祭るべきだと主張した
天海は、豊臣秀吉が豊国大明神の神号が贈られた後の豊臣氏滅亡を考えると、明神は不吉であると提言
家康の神号は「東照大権現」と決定され、家康の遺体を久能山から日光山に改葬した
江戸の都市計画にも関わり、陰陽道や風水に基づいた江戸鎮護を構想する

天海の江戸設計
関ケ原の戦いに勝利した家康は、天海の助言を参考にしながら、江戸の地を選んだ
天海は家康の命により、古代中国の陰陽五行説にある「四神相応」の考えをもとに結論を下した
「四神相応」とは、東に川が流れ、西に低い山や道が走り、南に湖や海があり、北に高い山がある土地は栄えるとの考え
天海は、東に隅田川、西に東海道、北に富士山、南に江戸湾があったことから、江戸が四神相応にかなうと考えた

藤堂高虎らが中心となって江戸城と堀の設計が行われた
天海は、実務的な作業工程とは次元を異にする、思想・宗教的な面で設計に関わっていた
天海は、江戸城の内部を「の」の字型の構造にすることや、城を取り囲む掘を「の」の字型に掘ることなどを助言した
「の」の字型の構造は、城を中心に時計回りで町が拡大していくことを意図したものです
「の」の字型は、敵を城に近づけにくくする、火災発生時に類焼が広がるのを防ぐ等のメリットがある
天海は、江戸城の北東に寛永寺を築き、住職を務めた
近江の琵琶湖を思わせる不忍池を築き、琵琶湖の竹生島に倣って、池の中之島に弁財天を祀るなどした
江戸城の南西(裏鬼門)についても、その方角にある増上寺に徳川秀忠を葬っり徳川家の菩提寺とした

神田神社の神田祭、浅草寺の三社祭、日枝神社の山王祭は、江戸の三大祭
それらの祭りは、天海により、江戸城の鬼門と裏鬼門を浄める意味づけもされていた
天海は、江戸を鎮護するため、陰陽道以外の方法も利用し、平将門を祀った神社や塚を設置した
天海は、将門の地霊を、江戸の町と街道との出入口に祀ることで、街道から邪気が入り込むのを防ぐよう狙った

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