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江戸城は天然の要害の地に建設(2) 

2016年05月16日 外部ブログ記事
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家康が「江戸の地」を選んだ理由とは?

天然の要害に建設された中世江戸城
政治的・経済的発展のため舟運の便を図る建築された近世江戸城
歴史REAL「大江戸八百八町(竹内江戸東京博物館館長)」記事参考&引用












江戸城(歴史REAL&ネットより引用)

江戸城の始まり
12世紀に江戸氏祖が、江戸湾の日比谷入江を望む台地上に居館を構えた
現在の本丸台地から北の丸公園にかけての地域と推定されている
居館の地域は、北東の麓に平川が流れ、南側は赤坂の溜池のある谷地に隣接する天然の要害であった

城郭を構えた中世の江戸城
太田道灌が、古河公方足利成氏の攻撃に備える為建築しました
関東屈指の堅城といわれた城は、のちの江戸城の本丸・二の丸付近です

近世城下町建設の基本
台地先端の要害に城を築き、その全面に町を配して縄張りする
中世の城下町は、軍事的な防御力の有無を優先した機能でした
近世の城下町は、政治・経済の中心地としての機能を持つ必要がありました
織田信長の安土城築城を経て豊臣秀吉の大坂城築城により整備された近世城下町

近世城下町と江戸城
政治的・経済的発展のため舟運の便を図る(大量の物資を輸送)
江戸城は、江戸湾の奥深くに位置し、近世城郭としては末整備でした
江戸城の前面は、デルタ地帯や低湿地は、城下町建設の可能な場所でした
江戸城は、武蔵野にまで続く広大な後背地(ヒンターランド)に恵まれていた
家康は、鎌倉時代の江戸氏の居館や、太田道灌の江戸城の地形を利用し同じ場所に近世城郭の江戸城を再構築した
紅葉山から西の丸に至る道灌濠などを除くと中世の江戸城の遺構はほとんど見当たらない

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