メニュー

最新の記事

一覧を見る>>

テーマ

カレンダー

月別

慶喜

江戸の範囲 

2016年05月17日 外部ブログ記事
テーマ:テーマ無し



江戸の範囲はどのように決められたのか?

江戸の範囲場合によってまちまち
目付からの要望に応じ、「江戸朱引内図」にて決定
歴史REAL「大江戸八百八町(竹内江戸東京博物館館長)」記事参考&引用










江戸の範囲(歴史REALより引用)

江戸の範囲は、状況によりまちまちでした
町奉行・寺社奉行・勘定奉行によって異なる範囲でした
刑罰としての「江戸払い」では、品川・板橋・千住・本所・深川・四谷より内を江戸の範囲とした
変死者や迷子を掲示する、芝口の塗高札場で対象とする江戸の範囲
寺社奉行が寺社の堂塔修築の勧化を許可するのを江戸の範囲ともした

「江戸朱引内図」にて範囲決定
1818年目付から出された伺に対して評定所が協議し、老中阿部の決定として出した
「文政元年江戸朱引内図」です
太い線の内側は、従来の町奉行支配区域である
外側に札懸場堺筋と勧化場堺筋の範囲が「朱引」で描かれている
従来の町奉行支配地域よりも広い範囲、この朱引内を御府内とすることが決定された
明治新政府は、旧幕府の町奉行支配地域(黒引内)を朱引し、明治六年第1〜第6大区を朱引内とした

>>元の記事・続きはこちら(外部のサイトに移動します)





この記事はナビトモではコメントを受け付けておりません

PR





掲載されている画像

    もっと見る

上部へ