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平成の虚無僧一路の日記

家康替玉説 

2011年01月24日 外部ブログ記事
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家康の謎。正室の築山殿と長男信康を殺したこと。
そして、松平を「徳川」と改名。本家の松平太郎左衛門
家筋は、江戸時代を通じて、わずか500石で、三河松平郷に
閉じ込めたこと。

そこで「家康替玉説」が出る。
「家康 ( 松平元康 ) は、桶狭間の混乱の中で戦死した。
松平の家臣としては、駿府にいる竹千代 ( 信康 ) を
取り返して、今川からの独立を図る好機。それまで
元康の死を秘して、替え玉を立てた」というもの。

替玉のはずの元康が力をつけ、まず、反対する家臣団
を押さえ込んだのが「三河一向宗」との争い。そして、
築山殿と信康を殺して、松平の当主に収まった。

家康は、本家筋の松平一族を冷遇し、自らは「徳川」と
改姓する。その理由として「先祖は、上州(群馬県)の
得川から 時宗(じしゅう)の僧となって、流浪し、松平に
養子として迎えられた」などという伝承を作った。

松平は、京賀茂神社領の荘園で、その現地荘官であり、
「藤原姓」だった。それを、新田一族で「源氏姓」に
変えたのも不可思議。あえて「時宗の僧」などと
言い出したのは、家康の本当の出自をカモフラージュ
して、伝え残したかったのではないか。

もしそうなら、次の問題に飛躍してくるのだ。諸国を
遍歴する遊行の徒、時宗の徒(時衆)が、江戸時代に
なって藤沢の「浄光寺」を本山として、「時宗」という
一宗を確立したこと。

同じく、高野聖や鉢叩きと同類の「こも僧」も、時衆の
格上げに期待して、我もとばかりに『家康公お墨付』なる
ものをでっちあげ、これを幕府が黙認してきた、その謎が
解けるのである。


「尺八と一休語りの虚無僧一路」のホームページも見てください。

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