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徳川幕府二条城で始まり二条城で終わる 

2016年04月11日 外部ブログ記事
テーマ:テーマ無し



15年間家康は何をしていたのか?

家康は、関ヶ原の戦いで勝利した後、江戸幕府強固にするに15年間
『高島礼子・日本の古都』今回のテーマは3回シリーズの1回目です
非常に、興味深く、楽しく視聴しました
BS・TBS『高島礼子・日本の古都』番組参考&引用


















二条城(『高島礼子・日本の古都』番組テレビ、ネットより引用)

家康の関ヶ原の戦いで勝利後の懸念材料
東軍(家康)は西軍(石田三成)に勝利するが、豊臣政権が、完全に滅亡したわけでは無い
大阪には、豊臣秀頼も60万石大名として存在する
大阪・京都では、人民に豊臣秀吉の人気が高い(秀吉七回忌等)
豊臣政権の復興期待している大名、民衆多い
豊臣秀頼成人すれば関白になり、政権を担うと期待する人多い
流行り歌『御所ひとり熟して 落ちにけり 木の下で ひろう秀頼』
  (家康は何れ滅びて、豊臣秀頼(木下)がその後の政権を担う)

家康は、征夷大将軍就任を画策(豊臣秀吉関白)
朝廷から、徳川政権を認めてもらう必要がある
朝廷に接近し、征夷大将軍(武士のトップ)就任を画策
家康は京都に、朝廷対策として二条城を造る(秀吉聚楽第)
二条城は、徳川の威信を示し、朝廷ににらみを利かせられる場所
二条城は、美しく攻めに強固な城です(織田信長の本能寺で死亡例等より学ぶ)
家康、関ヶ原戦いの3年に念願の征夷大将軍になりました

家康、豊臣を滅ぼす対策画策
家康、息子の秀忠に将軍職を譲る
豊臣恩顧大名への接近
豊臣秀吉の妻『ねい』に、懐柔策として、秀吉を弔う高台寺建築
大阪城包囲する城を取り囲むように建設(姫路城・岸和田城等)

家康は、豊臣秀頼に、再三挨拶を要求
家康は、豊臣秀頼の成長と、秀頼を家臣としての扱いを朝廷・武家に趣旨徹底するため
秀頼は、長身で立派な若者(身長190cm)成長していました
家康『まずい』との認識より、その後の対策を(2回目へ)

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