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平成の虚無僧一路の日記

修行って何? 

2011年01月23日 外部ブログ記事
テーマ:テーマ無し



「ニセモノ」さんからいただいたコメント。
「修行している姿を見て、この人に何とかしてあげたい」と
 思ってお金を入れられる人→ 托鉢

もうひとつ 付け加えるならば、「救いを求めて」布施される
方もおられる。悩み苦しむ人を救う力は、私にはまだ無い。
だから修行するのだと 気づかされた。

昨晩は、酔っ払った若者二人にからまれた。左右から天蓋に
顔を近づけてくる。それでも二人の間に挟まれながら、平常心で
尺八を吹き続けた。すると、二人共財布を出して、小銭を入れて
くれた。しばらく手を合わせて「(心が) 洗われたな」と 云い
残して去っていった。酔った勢いでのジェスチャーだろうが
うれしい言葉だった。

もうひとつ、時折、酔っ払いのホームレスが現れる。大声で
わめきちらし、通行人に怒鳴りつけている。私の所に寄って
来たらどうしようと不安にもなる。釈迦は、荒れ狂う像の心に
入って おとなしくさせた。この人の心も鎮められないかと、
一音に“ 気 ”を込めて吹く。すると、気持ちよさそうに
目を細め、両手で尺八を吹く真似をし、首を振りながら去って
行った。

人の心にはいる。入れる人間になる。それが修行かと思えて
きた。「寒さに耐えて」とか、「尺八の練磨のため」にやって
いるうちは 自分本位だ。通行人の心に入り、さらに救いに
なるような姿カタチを作るまでが、修行の目的かと。

真如教主は、冬は氷を割っての水ごり、夏は蝋燭を何本も
腕に立てての勤行と、厳しい修行の末、衆生済度の道一筋に
立たれた。釈迦もそうだった。しかし、釈迦も真如教主も
「苦行をする必要はなし」と説いてくださっている。大乗
仏教では「托鉢修行」の必要を認めていない。そうは云われても
人は、自ら苦に身を沈めたい自虐性があるようだ。


「尺八と一休語りの虚無僧一路」のホームページも見てください。

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