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平成の虚無僧一路の日記

虚竹の笛 3 

2011年01月21日 外部ブログ記事
テーマ:テーマ無し



P.342「真言だろうと禅だろうと、尺八道はすべてに通じている。
   大道無門。禅も帰するところは遊行」
P.349「自力他力は初門のうち、唯一念仏になれば自力も他力もない」
P.350「曲の名は無い、ただ西湖に吹く風の音に任せて吹くのみ」

虚無僧は禅宗の一派と思われているが、室町時代、発祥の過程では
時宗(遊行宗)とも関係があった。ただ「南無阿弥陀仏」と唱えれば
救われるとする他力の念仏宗と、釈迦も仏も否定して自力を説く禅宗。
このまったく相反する仏法の接点が由良興国寺の開祖、法灯国師
心地覚心なのだ。
覚心は真言宗の高野山で修行し、禅も学んだ。禅浄双修、禅も真言も
浄土教も遊行宗もすべてが覚心につながるのである。
虚無僧が、なぜ法灯国師覚心を普化宗の日本開祖に担ぎ上げたのか。
その謎に、水上氏なりに暗に触れているのだ。

「尺八の音は死者の弔いに似合う」。そう、葬送、鎮魂の響きだ。
「人々は自然と尺八の音に合掌する。尺八は念仏なのだ」。
「仏法は今五山にはない。尺八の中にある」。

そうなのだ。「虚無僧とはなんぞや」。『虚竹の笛』を再度読み直し
てみて、端々の記述から、水上氏の言わんとするところが読めた。


「尺八と一休語りの虚無僧一路」のホームページも見てください。

「一休と虚無僧」で別にブログを開いています。

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