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平成の虚無僧一路の日記

一休道歌 

2011年01月19日 外部ブログ記事
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「正月髑髏」の話は、一休の作と伝えられる『 一休骸骨 』から
創られた話と思われる。内容は、骸骨たちが酒盛りして踊って
いたり、仲間の葬式を行っている絵に、道歌(どうか)が書かれ
ている「絵草子」。
『一休骸骨』の他、『一休和尚法語』『水鏡』『二人比丘尼』
など、一休作と伝えられる書はいくつかあるが、いずれも、
確証はない。そして江戸時代になって『一休咄・続一休咄・
一休諸国物語・一休関東咄・一休諸国物語図会・一休和尚往生
道歌百首。一休諸国物語』と、次々「一休話し」が作られ、
一休さんは人気者になっていく。

それらに書かれた「一休道歌」は、それぞれ少しずつ違って
いて、中には“どうかな?”と思われるものもあるが、一休の
禅を明快に表しているのだ。

「釈迦といふ いたづら者が世にいでて 多くの人を迷はすかな」

一休は釈迦も達磨も切って捨てる。座禅などは人生の無駄だとも
いう。地獄も極楽も無いと言い切る。成仏も往生も無い。死ねば
ただ灰になり土に返るだけと。

「仏とて外に求むる心こそ 迷いの中の迷いなりけり」

「仏に逢うては仏を殺せ。祖に逢うては祖を殺せ。父母に逢うては
父母を殺せ。始めて解脱を得ん」と、臨済宗の祖 臨済も云っている。
真意は、全ての権威を否定して初めて真実を発見するという意味か。
そのようなものにすがって生きるより「自灯明 ( 自ら火を灯せ )」>
「仏は 西にはいない、“みなみ”じゃ“ 皆身 ”」。つまり、
「己の心の内にある」というのだ。

釈迦も仏も達磨も座禅も経典もすべて“無用”という「一休の禅」は、
浪人者の集団「虚無僧」にとっては、まこと都合の良い教義だった。
その意味で「一休は虚無僧の元祖」と、私は考える。

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