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平成の虚無僧一路の日記

一休の宗論批判 

2011年01月19日 外部ブログ記事
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今の日本の仏教は、釈迦本来の教えからかけ離れて、
日蓮、親鸞、そして各新興団体の教祖の独自の宗教と
なっている。

葬式のやりかたも異なる。宗派ごとに唱えるお経も手順も
違う。そもそも「戒名」も日本だけ。それも宗派で違う。

こんな仏教界の宗派の対立を、江戸時代の人もすでに、
可笑しく見ていた。その思いを「一休」の名を借りて、
茶化したのが「一休の道歌」であろうと、私は考えている。

江戸時代も日蓮宗の他宗攻撃は、お役所としても やっかい
の種だった。それを「一休道歌」では

「南無阿弥陀仏」の念仏宗と「南無妙法蓮華経」の法華宗との
宗論を

 「南無を避け、四字と五字とて九字となり、一字のことで 
  住持めいわく」

双方から「南無」の二字をとれば、「阿弥陀仏」の四字と
「妙法蓮華経」の五字の違い。両方足せば九字。一字足りない
ことで、住持(禅宗の住職)を十字にかけて「めいわく」と
断じているのだ。

これなど、考えた人の頭のすばらしさに感動する。それも皆
「一休」の法語となったのだ。

ほんとに、虚無僧で立っていても、日蓮宗系や親鸞系の一部
過激信者には迷惑する。ま、「南無を避け、四字と五字とて
九字となり、一字のことで住持めいわく」とのみ、云うことに
しよう。

日蓮宗でも、私の知っている僧侶は、「他宗のことに心煩わされる
より、自分の修行を積め」と教えていた。その通りじゃ。


「尺八と一休語りの虚無僧一路」のホームページも見てください。

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