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平成の虚無僧一路の日記

磐之媛の嫉妬が語るもの 

2016年02月01日 外部ブログ記事
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北見志保子の「平城山」の歌詞に端を発して、古代史の疑問が次々に。
北見志保子は平城山にある「磐之媛」の稜の前でこの歌を詠んだ。
「平城山」は 京都と奈良の境の小高い山。「磐之媛」は「仁徳天皇」の后。
仁徳天皇の后の稜がなぜ京都と奈良の境の平城山にあるのかが第一の疑問。
仁徳天皇といえば、その御稜は堺にある。世界最大の前方後円墳として知られる。
仁徳天皇の都は「難波」。現在の大阪。「平城山」からは ほど遠い。
 
『日本書紀』の記述では、
磐之媛皇后は 豊楽の酒宴のために、紀伊国へ柏(かしわ)の葉を採りに
船で出かけた。その間に仁徳天皇は八田皇女を妃として宮中に召し入れた。
皇后は難波まで帰って来て、この事を知り、怒って、柏の葉を海に投げ捨て、
難波から淀川を遡り、木津川へ入り、南山城の筒木に至り、そこに住んだ。
天皇は皇后の所へ迎えの使いを送るが、それも追い返してしまう。そこで、
天皇自ら迎えに行くが、それでも皇后は会おうともしなかった。
 
さて、「日本書紀・古事記」の記述は、相互に若干異なるところがある。
また、何かを故意に隠蔽しようとして作文されているというので、記述
通りには読めない。
 
磐之媛が、難波から遠く離れた南山城に移り住んだということの裏には、
政治的社会的な何かが含まれているのではないかと云うことである。
 
そこは、渡来人か多く移住した土地であり、「磐之媛」は、その渡来人の
援助を受けて、宮を建て移り住んだ。
 
 
そして第二の疑問は、仁徳帝には何人かの側室がいた。磐之媛は、
「八田皇女」にのみ 特別な拒絶感を示した。
 
磐之媛は、葛城襲津彦の娘で、皇女てはない。臣下から后となった最初の女性である。
磐之媛が生んだ子は、履中天皇・反正天皇・允恭天皇と三人が天皇になっている。
 
対して八田皇女は、応神天皇の娘で、仁徳天皇とは異母妹なる。母が違えば兄妹でも
結婚は許された。
 
その八田皇女の背景には和珥氏という強大な豪族があった。ワニ氏は渡来人であり、
南山城に地盤を築いていた。磐之媛が移り住んだ地は実は、ワニ氏の勢力内。
磐之媛は、嫉妬相手の八田皇女のバックにあるワニ氏の援助を受けていた。
 
この矛盾はどう解釈したらよいのだろう。磐之媛が柏の葉を採りにいったという紀伊は
もともと、ワニ氏の出身地。ワニ氏は紀州から、山城(京都)に移り、双方に地盤を
築いていた。磐之媛が「紀伊に柏の葉を採りに行った」というのは、仁徳帝の命に
よって、紀伊の渡来勢力の協力を得に行ったということを、暗に語っているのではないか。
 
そして磐之媛は、紀伊から山城に行き、ここでも渡来人の援助を得た。
八田皇女も、同じ渡来人ワニ氏をバックにもつ。
 
磐之媛が亡くなった時、磐之媛は出身地の葛城ではなく、ワニ氏の勢力下の
平城山に葬られた。そして媛の亡き後、八田皇女は仁徳帝の後后となった。
 
仁徳帝は磐之媛と八田皇女の二人のおかげで、ワニ氏を強力な味方につけた。
そのワニ氏とは太陽神を崇拝するイスラム系の渡来人である。
 
ああ、それなのに「磐之媛」が「八田皇女」に嫉妬したというのは、記紀の作者の
勝手な思い込みなのか、あるいは、もっと何か深いものを隠蔽しようとしたのか。
それが謎なのである。

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