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平成の虚無僧一路の日記

「平城山」の歌詞は 

2016年02月01日 外部ブログ記事
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北見志保子の「平城山」の詩は、「磐之媛陵(いわのひめりょう)」という題で                             詠まれたものです。
 磐之媛皇后御陵
人戀ふはかなしきものと平城山にもとほりきつつ堪へがたかりき
古もつまを戀ひつつ越えしとふ平城山の路に涙おとしぬ
 
この「古(いにしへ)も つまを」の部分について、いろいろ取り沙汰されています。
「つま=夫」か「妻」かで、立場が逆転します。また「妻に」が「妻を」とも。
なんと、志保子自身の書き残したものも、双方あって、どれが真意かわからない。
さらには、「平城山は 浜がフランスへ行った時の心情を歌ったのだと
よく人は云うが、そうではなく、ずっと後で奈良に行き、磐之媛皇后をしのんで
作った歌です」とも語っているのです。
「平城山」についてのイメージが、これでぶっつぶれました。
 
この詩が詠まれたのは、昭和9年、志保子が母の7年祭に帰郷する途中とのことです。                      そしてこの歌が初めて発表されたのは昭和9年12月に刊行された『柏樹』というガリ版刷りの                 歌誌だとのことです。それには「古も妻にこひつつ越えしとふ平城山のみちに涙おとしぬ」と                  あるとのことです。                    
となると、この歌詞の内容がかなり変わってきます。
志保子が恋しい「浜忠次郎」を想っての詩ならば「夫(つま)を」となるべきところですが、                         「浜を想っての歌ではない」というのですから、「妻(つま)を」ですっきりします。
 
さて、「磐之媛」とは仁徳天皇の后。仁政を敷いたという仁徳天皇だが、
妃が紀州に旅行している間に他の女性を后に迎えようとした。后の
磐之媛は、皇居には帰れず、この平城山で帝の帰心を祈ったという。
夫の浮気に苦しむ磐之媛の心情と、不倫相手を想う志保子では、ま逆なのだ。
しかも、男性が妻を想うとなっているのだから、ますますおかしい。
 
仁徳帝は、何度も媛を迎えに使者を遣わしたが、彼女は頑として応ぜず
帝を拒否したという。女性の気持ちとはそういうものらしい。
「妻を恋しい」と想ったのは仁徳帝の方だった。
というわけで、「この歌は浜忠次郎を想って歌ったのではない」というのが
驚愕の真相でした。
 
 
 
 
 

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