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平成の虚無僧一路の日記

水戸光圀と池田光政、そして上杉鷹山も 

2015年11月30日 外部ブログ記事
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御三家筆頭水戸徳川輪家の二代目藩主「水戸光圀」公。
水戸黄門様もまた、仏教を排斥し、神式(儒式)で祀られている。
「光圀」も「家光」も「保科正之」も家康の孫になる。「光圀」も
母は、奥付きの老女の娘で、正式の側室ではなかったため、
堕胎されるところだった。保科正之と生い立ちは似ている。
水戸光圀(1628-1701)も l領内のいかがわしい淫祠寺院を
破却し、破戒の僧尼を捕らえて還俗させている。死際には、
僧を遠ざけ、儒法を以て葬ることを命じている。
 
「水戸光圀、保科正之」と並んで、「三名君」と並び称されるのが
岡山藩主の「池田光政」。母は榊原氏だが、二代将軍秀忠の
養女となっての輿入れだから、秀忠の孫でもある。
池田光政も、神儒一致思想から神道を中心とする政策を取り、
神仏分離を行なった。また寺請制度を廃止し神道請制度を導入した。
儒学的合理主義により、淫祠・邪教を嫌って神社合祀・寺院整理を行い、
当時金川郡において隆盛を極めていた日蓮宗不受不施派を弾圧した。
地元で代々続く旧家の過去帳の抹消も行った。
光政は幕府が推奨し国学としていた朱子学を嫌い、陽明学・心学を藩学とし、
実践した。
そして、江戸時代後期の名君、米沢藩の「上杉鷹山」も、「厄年の厄払い」
など、因習行事に出費することは無用と、家臣に言明している。
 
ああそれなのに、こうした因習は現代も根強く残っている。最近、商魂に
利用されて、ますます広まりつつあるようだ。

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