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平成の虚無僧一路の日記

会津藩祖保科正之は神式で祀られた 

2015年11月29日 外部ブログ記事
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 会津藩祖「保科正之」は、二代将軍「秀忠」がお女中「お静の方」に
生ませた子である。御台所「お江」から命を狙われ、信州高遠の保科家に
預けられて育てられた。三代将軍となった「家光」もまた、「お江」から
疎まれていた。そこで「お江」がこの世を去った後、「正之」と「家光」は
兄弟の対面をし、以後、「正之」は「家光」の片腕となって江戸幕府の
組織固めに取り組む。「保科正之」は「朱子学」と「卜部神道」を信奉し、
そのため、仏教を排斥する。
北の守りとして「会津23万石」の太守に任ぜられた時、会津の郭内に
あった仏教寺院をすべて郭外に移転させ、自らは磐梯山麓に
「土津(はにつ)神霊」として、神道で祀られている。この時、家臣の間で
神式で祭るか、仏式にするかでもめた。「家康は東照大権現」として
祀られたが、二代将軍「秀忠」も三代「家光」も実は仏式だった。
ただし「家光」の廟は日光東照宮に隣接する輪王寺にもある。
保科正之は、島原の乱後、キリシタン禁制を徹底するため、国民の
すべてを仏教寺院の檀家制度の中に籍を置くよう命じた張本人である。
それなのに、正之は仏式ではなく、神道で、そして会津藩士は皆、
藩祖にならって仏教から神道に改宗させられたのだ。
会津藩士は大方会津盆地の東に連なる小田山、大窪山、青木山の
山麓に神道で葬られている。当家も先祖代々「神道」である。
 

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