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平成の虚無僧一路の日記

怪僧「天海」の謎 

2015年11月29日 外部ブログ記事
テーマ:テーマ無し



会津高田町で虚無僧をしていて夕立に遭い、雨宿りした時、
目の前に「天海僧正生誕之地」の大きな石碑と、天海の像があった。
徳川家康に仕えた黒衣の宰相「南公坊天海」は、なんと私の故郷
「会津」の出身だった。しかし、その前半生は不明で、家康に仕えたのは、
家康の最晩年。 それなのに、家康を「大権現」として日光に祀ることを主張し、
それを押し通した。彼になぜそれほどの権限があったのかが謎なのである。
一説には「天海=明智光秀」説がある。光秀は山崎の合戦で秀吉に敗れた後、
比叡山に隠れ、家康を頼って関東に赴いた。
「明智光秀」の子孫で、最近「本能寺の変の真相」を解き明かした明智憲三郎氏によれば、
「織田信長は光秀に家康暗殺を命じたが、光秀はその命に従わず、信長の陰謀を家康に
伝え、信長を討った。光秀は家康にとっては命の恩人だった」というもの。
 『天海=明智光秀』説の根拠として、光秀の木像と位牌のある「慈眼寺」の寺号と、
天海の諡名が同じ「慈眼」であること。
「日光」とは「明智日向守光秀」の略であり、中禅寺湖や華厳の滝が見える平らな
場所を天海が「明知平」と命名していること。また、日光東照宮陽明門の脇にある
一対の随身座像は二体とも「明智家の桔梗紋」。などなど、
 
さらに、「春日の局」の存在がある。「春日の局」は、光秀の甥で重臣だった
「斉藤利三」の娘であり、「斉藤利三」は本能寺の変で信長を討った張本人である。
乱の後、お福は母方の「稲葉」氏に預けられ、小早川秀秋の家臣となっていた
稲葉正成と結婚する。「稲葉正成」は、関が原の時、小早川秀秋に徳川方への裏切りを
画策、家康を勝利に導いた。この関ヶ原の功と 明智光秀の恩に報いるため、家康は「天海」と「お福」を重用し、
その子である正勝を老中にまで登用する。
お福は二代将軍秀忠の長子「家光」の乳母となる。秀忠の正室は「信長」の姪
「お江」である。「お江」と「お福」は仇敵の仲である。「お江」は「家光」を嫌い
次男「忠長」の方を溺愛し、次期将軍にしようとしていた。
この時「お福」は駿府まで行って家康に会い「家光」を将軍にするよう頼み込んだ。
家康は「お福」の願い通り、江戸に赴いて「家光こそ次期将軍である」ことを示す。
「家光」の「光」は「明智光秀」の「光」であるとも。
「家光」は「家康」と「お福」の間に生まれた子とする風聞まである。
家康は「お福」や「天海」のいうことにはすべて肯定であった。そこまで
「お福」と「天海」の言に従う理由は「明智光秀」が命の恩人だったからである。
 
なお、日光東照宮の大造営は「三代将軍家光」によってである。家光は父
秀忠よりも「家康」を尊敬し、「家康と光秀」を尊崇していた。
 
 

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