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平成の虚無僧一路の日記

心地覚心と高野聖 

2015年11月10日 外部ブログ記事
テーマ:テーマ無し



高野聖のうち萱堂の聖は無本覚心を祖としている。高野聖とは別所に集団で居住して真言念仏や禅・時宗などを兼修しており、勧進を行ないつつ、後世には商業にも従事した。高野聖には萱堂聖・小田原谷聖・往生院谷聖があったが、このうち萱堂聖は無本覚心を祖とする。
紀伊由良法灯国師(無本覚心)80歳の時である弘安9年(1286)、一人の俗人が西方寺にやって来て、国師に「私は塵累を厭う(出家を願う)志があります。願わくは和尚の弟子として下さい」といった。そこで髪を剃って「覚心」と名づけた。弟子として師の法諱を犯すことを恐れたが、国師は考えるところがあるとして許さず、「お前は高野山に縁がある。そこに行って萱原で念仏を唱えなさい」といって鉦鼓1口を与えた。覚心は「高野山は鳴器(楽器)を禁じています」といったが、国師は「ただ私の言うとおりのままにしなさい」といったので、高野山に登って念仏した。山中の大衆は鐘の音を聞き、驚き怪しんでその音の場所を探してみると、老人が萱の中にて鉦鼓をたたいて安座念仏していた。大衆は「お前は何をしているのだ。この山は古来より鳴物を禁止している」といった。覚心は「私は由良(西方寺)の開山の教えのままにしているだけである」といった。大衆は鉦鼓を捨てたが、この鉦鼓はたちまち空中に飛び上がって山や谷に鳴り渡り、ついに覚心の座わっている前に還ってきて、叩いていないにもかかわらず自ら鳴った。大衆達も不思議な思いをした。その夜高野山検校宿老の夢に、鉦鼓を許すべきの旨は祖師明神と由良開山(無本覚心)との契約である、と見たため、萱を引き結んで堂を建てて念仏三昧の場とした(『紀伊続風土記』巻之54、非事吏別、萱堂)。

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