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平成の虚無僧一路の日記

無本覚心と普化宗 

2015年11月11日 外部ブログ記事
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 普化宗の伝説と無本覚心?










無本覚心は禅宗のみならず、密教と深い関わりを持ち、また一遍との交流を通じて時宗とも関係があった。また開山となった西方寺が熊野詣参詣路の途中にあって多くの参詣者を集め、託宣する者も多くいたであろうことは、無本覚心の母の説話からもみてとれる。そのようななかで、無本覚心は日本における普化宗(ふけしゅう)の祖として尊崇されている。普化宗とは近世における臨済宗の一末派で、慶長5年(1600)前後に虚無僧(こむそう)らが開創した一宗派であり、明治4年(1871)10月28日に廃宗となったが、間もなく明暗教会として再興されている。虚無僧とは中世・近世に存在した宗教者で、時代劇などでは胸に頭陀袋をかけ、頭には編笠をかぶり、尺八をもつ姿で描かれ、風雨・野宿を厭わず方々を遍歴した。中世には薦僧(こもそう)とも「ぼろぼろ」ともよばれており、『徒然草』にも「ぼろぼろ」が登場する。中世の薦僧は面桶(めんつう)と薦を持ち、尺八を吹いて門付(かどづけ)しており、宗教者というよりはむしろ下級芸能者の要素が強かった。普化宗は主な宗派として寄竹派・金先派・活総派・根笹派・小菊派の「普化宗六派」が知られているが、近世には活総(火下)派・金先(キン(〈勤−力〉+斤。UNI65B3。&M013591;)詮)派・寄竹派・梅士派・小菊(夏漂)派・根笹(小笹・司祖)派・不智派・養沢派・芝隣派・義文派・隠巴派・宗和派・錐南派・短尺派・野木派・児派の16派が存在していた(『普化宗門掟書』)。 普化宗の祖とされる普化(生没年不詳)は、中国・唐代の風狂の禅僧である。その伝は『祖堂集』(952)・『宋高僧伝』(988)・『景徳伝灯録』(1004)・『臨済録』(1120重刊序)などに記されている。『臨済録』には岩波文庫を含めた多くの訳注本があるからここでは詳細は割愛するが、以下に『祖堂集』・『宋高僧伝』・『景徳伝灯録』にみえる普化の伝記を掲げておく。 ?普化和尚、盤山に嗣ぐ、鎮州に在り。未だ行録を観ざれば化縁の始終を決せず。師は市中で馬歩使に出会うと相撲をとる格好をした。すると馬歩使は五棒くらわせる。師が云う、らしいことはらしいけれども、そうかといえばそうではない。師はひごろ日が暮れると墓場にやどり、朝になると市中に遊んで、鈴を持ちながら云うのだった、明頭に来ても打つ、暗頭に来ても打つ。林際和尚がこの話を聞いて侍者に師を探らせた。侍者が来て師に問う、明でもなく暗でもない時は、事はどうですか。師が云う、明日大悲院で斎会がある。侍者はもどって林際に挙似する。すると林際は歓喜して云う、どうしたらこの男に会えるかな。ほどもなく、普化の方から林際にやって来た。林際は歓喜して食事をしつらえ、対座して食べた。師はおかずだけを食べに食べる。林際が云う、普化の食べぶりはロバそっくりだ。すると師は座をおりて、両手を地についてロバの鳴き声をあげた。林際は無語である。師が云う、林際は小せがれ、片目あるのみ。のちある人がこの話を長慶に提示した。長慶は林際の無語に代わって語を進めて云う、まあそれはそれとしておこう、それから先はどうだ。今度は普化に代わって云う、あなたにこの一問を問われてすっかり酩酊いたしました。林際がまた問う、大悲の菩薩は千百億に分身する。どうか現れたまえ。師は机を地になげうち、舞いの様子をして吽吽といって出て行く。また、林際が上堂し、師が侍立したとき、ある僧が師の面前に立っていた。師は真っ向からその僧を林際の前におし倒した。すると林際は杖で三度たたいた。師が云う、林際は小せがれ、片目あるのみ。また、林際が師とともに聖僧を観ていたとき、林際が云った、凡夫か、聖者か。師が云う、聖者だ。すると林際は咄とどなった。師は手をうって大笑した。師はある日、手で棺桶をささげ持ち、外城をめぐって人々に告げて云った、わたしは遷化しに行くんだ。人々は雲集してついて 行った。師は東門から出て云う、今日は具合がわるい。二日目には南門で、三日目には西門でそうすると、人々はだんだんと少なくなり、誰も信じなくなった。四日目北門から出ると、もう一人もついて来るものがなかった。師は自分で墓の門を煉瓦で塞ぐと、遷化した(『祖堂集』巻第17、普化和尚伝。古賀英彦「訓注祖堂集」(花園大学国際禅学研究所『研究報告』8、2003年)694〜696頁より引用)。 ?釈普化はどこの人であるかわからない。性質は尋常ではなく、かつ多く天真のままで飾ることはなく、行ないは簡放であって言語にとらわれることはなかった。みずから盤山宝積禅師につかえ、密密に指教され深く堂奥に入った。盤山宝積の戒めによって仏道を保任したものの、発狂して常道にそむいた。かつて臨済義玄(?〜867)公とあい見みえたが、これに驢(ろば)の鳴きごえでこたえたので、傍らに侍る者で嘲笑しない者はいなかった。直時に歌舞して、ある時は悲号した。ある人が彼に接すれば、千変万態で、ほぼ同じということはなかった。ある日、棺木を捧げ持って街を巡り戸をめぐって告辞して、「普化明日死ぬぞ」といった。その時これを視た者は譏ってはならないことを知った。趙州の人は普化に従い送って城の東門に出たが、普化は声をあげて、「今日は具合がわるい」といい、二日たって南門から出た。人はまた従い送ったが、普化はまた、「明日がまさに吉である」といい、このようにして西門・北門に出てまた戻ってきた。人は煩わしくなり怠ってしまった。ある朝、郊野に坐して禅定に入るようであった。禅宗の著述する者は、普化のその発言や悟り(が普通の禅僧とは異なる)ため、普化を(禅僧の中から)排斥して散聖科(世俗を捨てた道人)の項目の中に入れた。そのこころは正員ではないからである(『宋高僧伝』巻第20、感通篇第6之2、唐真定府普化伝)。 ?鎮州の普化和尚ははどこの人であるかわからない。盤山に師事して密かに真訣を受けたが、偽って狂い、出る言葉には決まった定式がなかった。盤山が順世(示寂)するにおよんで北の地に遍歴して衆生を教え導いた。ある時は城市で、ある時は墓地で一鐸を振って、「それが明で来れば明で始末し、暗で来れば暗で始末する」といっていた。ある日臨済が僧を遣わしつかまえて、「そのどれでもなく来たらどうする」といわせた。(普化は)「明日は大悲院でお斎(とき)にありつける」といった。(普化は)人を見れば(身分の)上下関係無く皆鐸一声を振るっており、時の人は「普化和尚」と号した。ある時は鐸を持って人の耳のあたりでこれを振い、ある時は人の背中にくっついて、振り返る者がいたら即時手を伸ばして「我に一銭を乞う」といい、食事時でなくても食にありつければ食べた。かつて夕暮れ時に臨済の院に入って生野菜と飯を食べた。臨済は「この男は大いに一頭のロバに似ている」というなり、師(普化)はロバの鳴き真似をしたため、臨済は絶句してしまった。〔割書略〕 師(普化)は馬歩使が出て叱咤するのを見て、師(普化)もまた叱咤して相撲しようとした。馬歩使は人に(普化を)五棒討たせたが、普化は「らしいことはらしいけれども、そうかといえばそうではない」といった。師はかつて街の道路の間にて鐸をゆらして「どこか行くところを探しているが、得られない」と唱えていた。時に道吾がこれに遭遇し、ひっつかまえて「お前はどこに行こうとしているのだ」と問いかけたが、師は。「お前はどこから来たのか」といったので、道吾は絶句してしまった。師は手をひいて去っていった。臨済はある日河陽・木塔の二長老とともに僧堂内にて坐って、「普化は毎日街市の中で狂ったようなまねをしているが、これは凡夫なのだろうか、聖人なのだろうか」といったが、言い終わらぬうちに師(普化)が入ってきた。臨済はそこで「お前は凡夫なのか、聖人なのか」と問うた。普化は「お前もまた私が凡夫なのか聖人なのかいえ」といった。そこで臨済は一喝した。普化は三人を指さしながら「河陽は花嫁、木塔は老婆の禅、臨済は小僧っ子だが片目はそなわっている」といった。臨済は「この賊め」といい、師(普化)も「賊め、賊め」といって去っていった。普化は唐の咸通年間(860〜74)の初め、まさに示寂しようとして、市に入って人に「一衣の僧衣を施してくれ」といった。ある者は披襖を与え、ある者は布裘を与えたが、皆受けとらず鐸を振って去った。時に臨済は人に命じて一つの棺桶を送り与えた。師(普化)は笑って「臨済の小僧っ子は饒舌だ」といってこれを受け取った。そこで告辞して「普化は明日東門に去って死のう」といい、郡の人を率いて城を出たが、師(普化)は声をあげて「今日は具合がわるい」といい、二日目には「南門で死ぬぞ」といって人はまた付き従ったが、また「明日に西門の方角から出ると吉だ」といったので出る人は稀となってしまった。出ては帰ってくるので、人の意はようやく怠るようになった。四日目に自ら棺を持って北門から外に出て鐸を振って棺に入って逝去した。郡の人は走って城から出、棺の蓋をあげて視てみると、すでに見えなかなっており、ただ鐸の声が漸く遠くなるのを聞いたが、その理由はわからなかった(『景徳伝灯録』巻第10、鎮州普化和尚伝)。 以上のように普化と普化宗を結びつけるようなものは、普化の時代に近しいものからはみられないのであるが、鐸を市中にて鳴らして唱導する説話や、後世の禅僧からは禅僧とはみなされずに「散聖」とみなされていたことは、普化が市中にて唱導する聖(ヒジリ)のような類の僧であったことを示している。このように普化の説話からは積極的に普化宗の祖とみなし得る史料はないものの、後代の普化宗において、普化が伝説的始祖とみなし得ることができる要素を包括していたことが窺える。 







 

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