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北軽井沢 虹の街 爽やかな風
毅然と「運命に耐える」姿の偉大
2015年07月30日
テーマ:テーマ無し
この日曜日の夜、私は何気なくつけた衛星テレビの番組に釘づけになった。途中から見たので、正式の題名も、登場人物の名前も正確にわからないのだが、終戦直後、それもすべてが焼き尽くされたヒロシマ、ナガサキの原爆の跡を撮影した、当時のアメリカの従軍カメラマンだった老人が、自分の記録写真に登場した人物を探して歩くドキュメンタリーである。
アメリカ人といえども原爆の存在を一般人は知らなかったという。勝利の後に残されたものが、このような無残な破壊であり廃墟だったのか、と当時の若い従軍カメラマンは思う。
記録の中でも、ひときわ、私たちの心を引きつけたのは、道端に立ちつくす11、12歳の少年の姿だった。いがぐり頭で唇をきつく結び、背中に着物を着た弟を黒い紐でおぶっているが、その子は眠りこけてのけぞっているように見える。
やがてカメラマンは、少年の背負っている弟がすでに死んでいるのだということを知る。
彼は川沿いの空き地にできていた臨時の焼き場で弟を焼いてもらうために、遺体を背負って運んできたのである。
ということは、兄弟を保護するはずの両親が既にいないか、重傷を負って、子供の面倒をみられなくなっているということだ。やがて順番がくると、焼き場の係員は静かに弟の遺体を受け取って、丁寧に炉の端においた。その間、この少年はただ必死にこの苛酷な現実に耐えていた。はだしのまま直立不動に近い姿勢で道端に立つ姿は、幼いながら「軍人のようであった」とカメラマンは述懐する。彼はそこに人生に立ち向かう「勇気」を見たのだろう。
彼は来日中も杖をついてこの少年を探すが、長崎の新聞でも見つけられなかった。もう80歳を超えているわけだから、死亡していても当然なのだが、思いを残して帰郷した彼は、アメリカの自分の住む町の教会の一室で、戦争の記録展を開く。見に来たすべての人が、この少年の姿の前で泣いた。アメリカは戦争に勝ったが、運命を甘受して生きた人生の勝者は、このはだしの少年であったかもしれないのだ。
記録にはたくさんの元少年たちが、老境に入った姿で登場した。一人の老人は、カメラマンの記録の中の魚釣り少年が自分であることを、頬の傷跡から確認した。
彼とカメラマンは、戦争の痕跡もない繁栄の大通りで会う。言葉も、通訳を通さないと通じないもどかしさを感じる。カメラマンは最後に「また機会があったらどこかでお会いしましょう」と言う。元魚釣り少年は、立ち去っていく相手の姿をその場に立ち尽くして見送る。それは戦争中に私たちが習った直立不動の姿勢であった。老カメラマンが振り返ると、彼は深々と日本風のお辞儀をした。彼はその単純な民族的な動作の中に、人生全体への尊敬もむなしさも、悲しみも許しも、辛さも慈悲も、すべてをこめて見せていた。
昔は至る所に、毅然として運命に「耐える人々」がいた。
産経新聞のコラム 曽野綾子の透明な歳月の光より
暑い毎日が続いているが、明日で7月も終わり、終戦の月がくる。
私の妻は、生後一か月で被爆している。最年少被爆者の一人だ。いつもこの時期には戦後○○年と報道され、自分の年齢を忘れることはない。昭和22、23年の頃、私は広島の原爆ドームがある猿楽町(現在の紙屋町)に住んでいた。敗戦のことも原爆のことも知らなかった私は、原爆ドームの螺旋階段を上って遊んでいた。その時、鉄製の螺旋階段は幼子の体重でも少し揺れていたのを覚えている。今なら危険な遊びに違いないが誰も注意しなかった。足元は瓦礫でいっぱいで歩くのも危険な状況だったが、まだ放置されていた。
雨上がりの晴れ間に、ジー〜という蝉の鳴き声が弱々しく聞こえてくる。
あの奇妙な声で鳴くエゾハルゼミに比べると、暑さにやられているような弱々しさだ。
あの時の原爆ドーム付近には、蝉のとまる木もなかったに違いない。
そして、一つ間違えれば、私も元少年の一人になっていたかもしれないのである。
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