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心 どまり

笈の小文(おいのこぶみ) 

2015年04月01日 ナビトモブログ記事
テーマ:季節

 『笈の小文』とは、芭蕉の死後、芭蕉が書いた真蹟短冊や書簡などをもとに、大津の門人 川井乙州によって編され、宝永6年(1709年)に出版された紀行文集です。
此の集は、『奥の細道』にも匹敵する良く出来た文芸作品との評価が定説になっています。

   さまざまの こと思ひ出す 桜かな 

 この句は、芭蕉が二度目の吉野行の途中、実家のある伊賀国上野で詠まれた句です。

 西行を檜、自分自身を翌檜(あすなろ)に例え、西行を慕い続けた芭蕉が、吉野を旅すると言う事は、西行の足跡を辿り、西行に出逢う為でもあり、自分を鍛え直す旅でもあったのです。
この句に付されている詞書には、こう記されています。

「探丸子(たんがんし)の君、別墅(べっしょ=下屋敷のこと)の花見、もよはさせ給ひけるに、昔のあとも さながらにて 」

(意)〔貞亨5年(1688年)〕旧主蝉吟(せんぎん)公(藤堂良
   忠)の遺子・探丸子(良長)から伊賀上野の下屋敷で開か
   れた花見の宴に招かれたので行ってみると、そこは、昔
   と何ら変わりなくて 〕

「探丸子」とは芭蕉が、若い頃に仕えていた故藤堂良忠の息子良長の俳号です。
旧主良忠は、蝉吟(せんぎん)と言う俳号を持つほど、俳諧を好んだ人物でした。
その子良長は父同様俳諧の道に長じ、元禄元年(1688年)この句が詠まれた当時は、23歳の若者でした。

 芭蕉は、過ぎし日の蝉吟公の忘れ形見探丸子を仰いで、追憶の念とその感動が、自ずと筆を執らせて「さまざまの事」の六文字に思いの丈(たけ)を込めたのです。

 又、探丸子も父の血を受け、文学的才能が豊かでしたので、たちどころに脇を付けました。(直ぐに返歌しました。)

   春の日 はやく筆に 暮れゆく 

こうして二人の親愛が、ひとつの連句を生んだのです。

 『さまざまの』の句は、誰でも詠めそうな平凡な句にも聞こえる句ですが、何度も読み返してしまいますし、何の講釈も要らないしみじみとした心に沁みる句です。

 人はこの句から、自分の人生の、それこそ人様々の色々な事が浮かび、思い出す事でしょう。


 芭蕉(松尾宗房)は若い頃、探丸子の君の父君に当たる良忠に仕える近習でした。
近習とは今で言うエリートですので、芭蕉の将来は約束されていたようなものでした。
しかし、寛文六年(1666年)春、桜の宴を催した直後、突如としてこの良忠が25歳の若さで、急逝してしまったのです。
芭蕉、23歳の時の出来事でした。
この後、若き宗房(芭蕉)は、世を儚み、脱藩という重い罪を犯しながら、伊賀上野の故郷を離れる事になるのです。

『さまざまの』の句を詠んだ元禄元年(1688年)は、良忠公が主催した桜の宴から22年後に当たります。
想像しますに、脱藩までした芭蕉は、仕えた旧主 良忠の息子殿が、藤堂家を継ぎ、父君と同じように主催した桜の宴に招かれ、さぞかし深く感じ入った事でしょう。
22年前の花見の宴の光景が、しみじみとよみがえり、良忠公の懐かしい御顔が、桜の花に重なり浮かんだかもしれません。

 或は、22年の年月を経ても、昔と少しも変わらぬ桜木や、父良忠の面影を伝える23歳の探丸子の様子に、様々な感慨に浸った事でしょう。
45歳にして枯淡の句境に入りつつあった芭蕉は、ありふれた言葉を用いて、この句を詠んだのです。

   さまざまの こと思ひ出す 桜かな 

 一見凡庸にさえ感じられる句ですが、この句に込めた芭蕉の胸中を慮る時、胸が締め付けられ、熱いものが込み上げて来そうになります。

 旧主良忠の俳号が『蝉吟(せんぎん)』と言うのも何か暗示的ですね!
『蝉吟』の『蝉』は『せみ』の事です。
『吟』は、『声に出してうたうこと。吟じること』
つまり、蝉の鳴き声・鳴き様を意味し、『蝉の声』そのものなのです。

 御存知の様に蝉は、約七年間を土中で過ごし、成虫になり地上に出て来てからの生存日数は、凡そ七日間と言う儚い命です。

   閑かさや 岩にしみ入る 蝉の声 

と言う名句がありますが、

   やがて死ぬ けしきは見えず 蝉の声

と言う怖い句もあります。

 芭蕉が詠んでいる「蝉」とは、儚き命の象徴であり、かつて若き芭蕉の幼馴染で友であり、主君であった藤堂良忠の儚い生涯の事を、芭蕉の無意識が象徴的に詠ませたものかもしれません。

 山形県の立石寺(山寺)は、蝉が驚く程のうるささで鳴いている古寺です。
それを何故、芭蕉は、「閑かさ」と表現したのでしょう。
おそらくこの「閑かさ」というものは、周囲の「静けさ」の事を言っているのではなく、あくまでも芭蕉個人の主観の中での、音がとぎれて何も聞こえなくなった状態を「閑かさ」と表現したの でしょう。

 立石寺の山門の岩は、近在の民の墓となっていて、岩には穴が掘られ、骨が埋葬されているのだそうです。
そう聞かされた芭蕉は、驚きと共に不易(不変)と流行を悟ったのではないでしょうか?

それがこの「閑かさ」の句であります。

 又『蝉』は、旧主 藤堂良忠(蝉吟公)。
『岩』は、芭蕉の心(想い)。
「芭蕉の心にしみ入る、主君良忠様(声)」と言う事になります。

 主君で有りながら、歳も近く友でもあった蝉吟公を懐かしむ芭蕉の思慕が詠ませた句でもあるのです。

 もし仮に、この蝉吟公が、亡くならずに生きていらしたなら芭蕉は、伊賀上野で松尾宗房として重用され、出世を遂げていたかもしれません。
そうしますと「奥の細道」も、数多い芭蕉の名句も生まれなかった事になります。
歴史とは、そして人の運命とは、実に魔訶不思議なものです。

 芭蕉は、自らの人生と儚く逝った主君の生涯を、変わらぬ桜の花の中に見ていたのかも知れません。
全ては、夢の跡のように消え去っても、桜花は変わらずに凛と咲いている。

 移り変わり行くものと、永久不変のものの 『もののあわれ』をしみじみと感じていたのでしょう。

     【出典 笈の小文・笈日記・桜と日本人】



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せみさんへ

良香さん

 おはようございます。
驚きました。淋しくなります。

御無理をなさらずに、絵画も頑張って下さい。
又、お戻りになられて、せみさんの作品が
拝見出来ます日を、心待ちに致しております。

嬉しいコメントを、ありがとうございました。

2015/04/03 06:20:32

光太郎さんへ

良香さん

おはようございます。
光太郎さんの仰る通りですね!
脱藩を決意するまでには、色々有ったので
しょうが、若き主君良忠の急逝が引き金に
なったようです。
コメントありがとうございました。

2015/04/03 06:06:48

プログ

さん

良香様はよく勉強しておられますね。
良香様のプログ読むのが楽しいです。

2015/04/02 14:44:21

永遠の旅

さん

芭蕉の句には自然や人の苦が歌られています
当時の祭事に嫌気を指して旅に出たのと思います
国中を周り人々の暖かさや苦しみを感じ取り。世に残したのでしょうか。

2015/04/02 07:23:03

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