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平成の虚無僧一路の日記

マホメット=ムハンマドとは 

2015年02月03日 外部ブログ記事
テーマ:テーマ無し



マホメットは、正確には”ムハンマド”という。生年は不明であるが、570年ごろ、アラビア半島のメッカの町のクライシュ族のハーシム家に生まれた。彼が生まれた時には、父はすでに亡くなっており、六歳のころには母とも死別して孤児となり、マホメットは祖父に、そしてそのあと叔父に養育される。『コーラン』は繰り返し孤児への心遣いを説いているが、その背景にはマホメットの孤児としての体験があると思われる。マホメットは25歳のとき、富裕な未亡人ハディージャと結婚した。ハディージャは、このとき40歳であったと言われている。この結婚によって彼の生活は安定し、三男四女の父となった。しかし、男の子はいずれも夭逝してしまったようである。結婚後のマホメットは、しばしばメッカ郊外のヒラー山の洞窟に閉じこもり、瞑想にふけっていた。そして610年のある夜、異常な体験をする。突然、天使が現われて、彼に次のような啓示を下した。 誦(よ)め、「創造主の名で。 小さい凝血から人間を創り給う」。 誦め、「汝の主は、このうえなく有難いお方。 筆もつ仕方を教え給う。 人間に未知なことを教え給う」と。 マホメットは、啓示によって預言者の自覚をもち、人々に警告し始めた。「アッラー唯一絶対、全知全能の神であり、審判の日が来、アッラーを信ずる者には楽園が、不信仰者には地獄が約束されている」と。けれども、マホメットの宣教は、ごく一部の熱心な信者を除いて、メッカの住民たちの嘲笑と反感を買い、それはやがて迫害となる。おりしもヤスリブ(のちのメディナ)の町から、マホメットを調停者として迎えたいとの誘いがかかり、彼はメディナヘの移住を決意する。当時、メディナの町にはユダヤ人とアラブ人の二つの部族が住んでいて、彼らの間で永年にわたる対立、抗争があった。マホメットは、そうした部族対立の調停者として、メディナに行ったのである。622年9月24日、マホメットは70余名の信徒とともに、メッカを出てメデイナに移住した。この年をもってイスラム暦の元年とする。メディナに移ったマホメットは、積極的に布教をすすめ、イスラム教の基盤を築いた。メディナに移った当座は、イスラム教徒はごく少数であったが、彼の晩年にはメディナにいるアラブ人はほぼ全員、信徒になった。しかし、ユダヤ教徒は、マホメットを預言者とは認めず、イスラム教徒とユダヤ教徒は対立をつづけた。一方、マホメットの故郷メッカでは、イスラム教を受け容れない。
そのため、メディナとメッカとの間で宗教的・経済的・軍事的対立は
激しさを加え、3度にわたる戦闘が行なわれた。630年、マホメットはメッカの無血征服に成功し、カーバ神殿に
安置されていた多数の偶像を破壊し、メッカがイスラム教の聖地とされた。632年、マホメットはメッカに最後の巡礼(別離の巡礼)をし、帰還後、3ヵ月ほどして突如、永眠した。ところで、イスラム教徒にとってマホメットは人間である。絶対に神格化されてはならない存在であった。
マホメットを神格化すれば、アッラーの超越性が制限されるからである。
マホメットを神格化しないところに、イスラム教の大きな特色がある。
イスラム教は偶像崇拝を否定しており、マホメット(ムハンマド)を偶像化する
ことも忌避している。フランスの風刺漫画で「ムハンマド」を描いたこと自体が
彼らの信仰を侮辱し、神経を逆撫でしたのだ。
 

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