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平成の虚無僧一路の日記

『名古屋叢書』続編 16 天海和尚のこと 

2014年11月26日 外部ブログ記事
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『名古屋叢書』 続編 16 「金城温古録」 
第60之冊 「三之丸」の3 東照宮の部
P.249 神君御在世の時、天台の宗旨を御聴聞。
天海和尚御師たりしかば、御身の後までを仰せ置かせられし。
敬公(尾張藩 初代藩主・徳川義直) 御宮御造立の初め、
また、天海和尚へ請はせ給うひしかば、まず申し上げられし也。
この時、敬公 御年20歳に成られる。
P.252 「開基天海僧正略伝」
「両部神道口訣鈔」に、「南光公坊天海、慈眼大師」
「釈了意記」に曰、「天海は 室町幕府 11代将軍 足利義澄
(在位 1495−1508年)の庶流に足利伝助義近と言ふ者あり。
奥州会津の人なり。摂州難波に寄居住す。或る夜、夢の知らせあり、
門前の桐の下に捨て子あり。拾ってこれを養育す。若年にして
和州長谷寺に出家す。中年に及びて叡山に居住し、「南光坊
天海」と号す。
「塩尻」に「天海は足利義澄の子。一説には奥州会津の芦名氏成り」
とも云えり。
「寛永覚書」に「寛永20年、大僧正天海 病危急。この人の歳、知る者なし、
百十歳と云う。三卿(尾張、紀州、水戸の各徳川) 御見舞いあり。
その時、「芦名甚三郎を召し出して欲しい。このこと一つ心に懸かる」と、
三卿に頼まる。 
 
(私注) 鎌倉から室町にかけて、会津の支配は、三浦一族の「芦名氏」。
「盛隆」の後、常陸佐竹義重の弟「義弘」を迎えて跡を継がすが、
伊達政宗に攻められ、常陸に帰る。関が原の後、佐竹氏は秋田に転封。
芦名は角館に居住す。「義広」は 寛永8年(1631年)病死、享年57。
角館の芦名氏は三代続いて、1653年(承応2年)の蘆名千鶴丸の死に
より断絶。
寛永20年(1643) 「甚三郎」は尾張公に召しだされて対面したと
あるが、「甚三郎」とは誰か、芦名の系図には見られない。
 

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