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たゆたえど、沈まず
終戦記念日に思う
2014年08月15日
テーマ:テーマ無し
69回目の終戦記念日、69年前私は満州の奉天にいた。そこが我が家であった。
前日が満一歳の誕生日である。私は体が弱く病床にいて医者にもう助からないと言われた日である。難産で仮死状態で生まれた私は胃腸が弱く母乳を飲んでも下痢ばかりしていたようである。そこへ父に召集令状が来て俗に言う赤紙であるが、そのショックで母は母乳が止まってしまった。母乳を断たれた私は粉ミルクになったがそれも終戦間近物資が乏しくなり調達できなくなってしまった。弱る一方の私はとうとう医師からもう命が保てないと宣告を受けてしまったのである。母は必死になんとかしてくれと医師にすがったもののもう助からないからそっとしておいた方がいいと言われた。それでも必死にせめてリンゲルを打ってくれと頼んだ。今の医療は点滴をふんだんに使うが当時は重症患者にしか使わなかった時代である。
医者は母の最後の頼みを聞いて看護婦にリンゲルを持ってこさせ打って帰って行った。虫の息の私を前に念仏を唱え続け夜が明けたら終戦である。
その途端に市内は満人の暴動が起こりソ連兵が乗り込んで来た。
暴動による殺戮と略奪の中、私と母の逃亡生活が始まる。その時リュックの中にあったのは富山の置き薬のトンプクとビオフェルミン、非常用の乾パンだけであった。私は母の噛み砕いた唾液でドロドロになった乾パンを食べて命をつないだようだ。いつ死んでもおかしくない絶望的な状況でなぜ私が生き延びれたか不思議といえば不思議であるが、今思うとそれは母の唾液ではなかったかと思う。
粉ミルクさえ受け付けなくなった私に母の唾液の酵素が特効薬ではなかったか。
決して諦めない母の愛が私を救った。昭和21年に引き揚げ船で引き上げてくるまでどうやって生き延びたのか奇跡といえば奇跡である。しかし私を守るために背中に受けた衝撃が元で母はやがて下半身麻痺の体になる。
沖縄返還の日、当時の首相佐藤栄作はもはや戦後が終わったと宣言したが、我が家の戦後は終わっていなかった。私は足掛け19年母の介護をしたが、母を見送った平成16年、我が家の戦後はようやく終わったのである。
昭和24年、ソ連から抑留生活を終えて父が引き上げて来た日は鮮明に記憶に残っている。我が家の実質的な再スタートの日である。赤貧の中から戦後の復興とともに歩んだ私の子供生活は不屈の親の背中をみて育っている。そういう意味では筋金入りである。
COPDなんぞ蚊に食われたようなものだ。戦争体験をして来た勇者たちを目の当たりに見てきた私は決して諦めない、ウンチクだけ語る腰抜けには絶対にならない。
楽しく明るく70歳を過ごします
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