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平成の虚無僧一路の日記

当家の祖は「平石」姓。全国の「平石」さん、連絡ください。 

2014年04月12日 外部ブログ記事
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さて、それでは、当家の祖「平石」氏は、いつの頃から
「桜井松平」の配下にいたのか。

『安城市史』5資料編にありました。

天文18年(1549)一向宗(本願寺派)の「本證寺」門徒の
連判状に「平石彦左衛門尉吉定、平石彦七安長、彦助安久」
3名が名を連ねていました。これにより、当家の先祖は、
1549年まで遡って確認できました。

なお、この連判状には「牧」姓の者が4人もおります。

この年、家康の父「松平広忠」は24歳で歿。家康は当時
まだ7歳。「竹千代」として駿府の今川義元の元に人質として
おり、安城は今川と織田の勢力争いの場となっていた。

1560年、桶狭間で今川義元が織田信長に討たれると、
家康は晴れて岡崎に帰還します。

しかし まもなく、三河一向一揆に苦しめられます。
三河一向一揆は、安城の「本證寺」他、本願寺末寺が
家康に敵対したもので、「桜井松平」は一揆方に加わり、
家康に対抗します。この時、家康の重臣の「本多正信」や
「蜂谷貞次(徳川16神将の一人)」も一揆側に付きます。
この「蜂谷」氏は 私の妻(旧姓「蜂谷」)の先祖です。

家康と一揆側が和睦した後、「桜井松平」は 松平の一族と
いうことで、所領は安堵されています。


さてはて、「牧原」の先祖は、武田一族で、信玄が歿した
1573年以降に、徳川方に就いたかと、思っていましたが、
この“仮説”は、成り立たなくなりました。
先祖は「平石」であり、1549年にはすでに、安城に居たことに
なります。

すると、「三河国・松平荘・牧の原の出」というは、松平氏が
山間の「松平郷」から出て、安城、岡崎に進出してくる以前の
こととなります。

徳川・松平の家臣には、「牧野」「牧」姓が結構おり、
「牧の原」の出と言い伝えています。同族なのでしょうか。
でも、その「牧の原」の場所が特定できません。

先祖を辿るというのは「ミステリー」を解くような楽しみが
ありますな。

全国の「牧原・平石」姓の方、先祖のことをご存知でしたら、
ご連絡ください。

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