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平成の虚無僧一路の日記

「桜井松平家」 

2014年04月10日 外部ブログ記事
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当家の系図の一番最初には「平石彦右衛門。浜松城主・
松平左馬介忠頼に仕え、禄500石」とあります。

そこで「松平忠頼」について調べてみました。
「忠頼」は、愛知県安城市桜井を本拠とする「桜井松平」の
7代目当主でした。

「桜井松平」は家康の曽祖父「信忠」の弟「信定」を
祖とする 松平の分家。

「信定」から三代目の「忠正」の時、1572年 三方ケ原で、
家康が武田信玄に惨敗。明けて天正元年(1573)正月、
信玄が野田城を包囲した時、「忠正」は野田城におり、
武田の捕虜となる。その後、信玄は病に倒れ、4月に死去。
「忠正」は人質交換で帰還する。

その功により「忠正」は、家康の義妹「多劫姫」を妻とし、
天正5年(1557)「家広」をもうけるが、その年37歳で死去。

そこで「多劫姫」は、「忠正」の弟の「忠吉」と結婚し、
天正10年(1582)「忠頼」を産む。ところが、この年、
「忠吉」も死んでしまう。

天正10年は、武田が滅び、織田信長も本能寺の変で
明智光秀に討たれるという、大混乱の年。

甲斐、信濃は、武田の後、今川、北条、徳川勢が入り乱れて
混乱する。保科正直は、混乱に乗じて高遠を奪還し、初め、
北条に就いて、妻子を人質に差し出していたが、後、
徳川に寝返っため、妻子を殺される。そして「正直」は
家康を頼って、安城に来ていた。

それで「多劫姫」は「保科正直」に再々嫁させられる
のである。

「保科」は高遠の“一地方豪族”という思い込みがあったので、
安城の桜井松平に嫁いでいた「多劫姫」がどうして、信州まで
行ったのか、疑問に思っていた。「保科正直」が、安城に来て、
居館を構えていたのでした。これで納得。

慶長5年(1600)の「関が原」の時は「松平忠頼」18歳で
家康に従う。美濃金山1万5千石から、翌年には浜松5万石
と、松平諸家の中では最高の出世である。

しかし、慶長14年(1609)、江戸で旗本同士の喧嘩の仲裁に
はいり、殺され、お家断絶となる。27歳だった。

その後、浜松城主となるのが「水野重仲」。

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