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都わすれの「「ベガルタ応援日記」

もう3年・・まだ3年 !? 

2014年03月11日 外部ブログ記事
テーマ:テーマ無し


今年も3月11日が・・・


もう3年のか・・まだ3年なのか答えは・・


しかしこれからも毎年3月11日がやってくる 


私には今日がお誕生日の友達がいて、以前はプレゼントの交換などやっていたが、それを止めてからは3月11日に届くようにおめでとうの「絵手紙」を投函していたが、あれからそれさえも出来ずにいて友達には申し訳ない 


土日あたりからテレビは震災関連の番組が、目白押しだったがお隣でお茶を頂きながら見たくらいで、自分でテレビをつけては一切見ていない 


元気な笑顔が映っても泣き通しになりそうだし、避けているって感じか・・


土曜日だったでしょうかyahooのニュースのところに、「元気です」って書かれた写真があって・・ついクリックしちゃったら、震災でお母さんを失くされた少女が卒業式で大粒の涙を流している写真だった 


何を見ても「涙・・涙」だから・・


あの日は朝一に歯科の予約があって、入れ歯が出来上がり装着して貰った  


それから元の我が家(いつでも住める状態の家があった)に行き、何をしたか定かじゃないが嫁さんも好きだしと、鉄の焼き芋鍋で焼き芋を焼き・・分厚い新聞紙にくるんで持ち帰った 


地震があった時は一人で我が家にいて、PCに向かっていた 


多くの人は地鳴りを聞いたらしいが私には、それが聞こえないから揺れだして「あっ・・地震だ〜!」って思い、その前の岩手内陸地震では仏様の花瓶が落っこちて、大変だったから花瓶を抑えていたが仏壇のものは、次々落ちて来るし大体立っていられなくなってどのようにして座ったか定かじゃないが(手をつかずに座れない)、気が付いたら自室と隣の仏間の間の敷居の上に尻もちをつき、花瓶2本を抱きかかえていた 


まだ新築の家で一応は「耐震構造」で建てた家だったから、「我が家が倒れる時は・・」と開き直っていて怖さは感じなかった 


嫁さんに何度も止められたが夕方になって、元の我が家まで行ったが家の中は足踏み場はなく、全くの地獄絵だった 


車庫を開けようと思ったがシャッターは壊れて開かない 


そんなところに通りかかった若い女性が、「そこまで水が来ていますよ」って教えてくれて慌てて家に戻った 


道路の半分は陥没していて軽自動車っでやっと・・


幸いにして住む家は大きな被害はなかった、勿論足の踏み場はなかった 


オール電化の我が家はその夜の食べ物がなく、やむなく午前中に焼いた焼き芋で飢えをしのんだ(避難所でも何も食べ物なかった) 


何時もは日付が変わるまでPC三昧の日々だったが、停電になるとすべてのものが使えない 


勿論暖房は何もなく起きている時は防寒着を着て、暗くなればベッドに潜る日々・・寝る場所があっただけ良かった 


翌日息子と元の我が家に行ったら、天袋からカセットコンロが落ちていて・・錆びたボンベもあったが、電気が点くまでお米だけはあったから鍋で嫁さんはご飯を炊いてくれた 


幸い我が家の辺りは断水しなくって助かった 


先日の大雪じゃないが物流が止まって、食品は勿論・・ガソリンなどかなり長い期間買えなかったし、息子など10日間くらい片道5キロ余りを歩いて会社に通った 


息子や娘たちは私よりかなり早く、何もなくなった夫の実家辺りまで行った様子だったが「行くな・・」と言われた 


幸いに親族などでの犠牲者はいなかったが、毎週二度通っていた夫の実家は海のすぐそばだったから、結果的に土台も半分しかなかった 


何とかガソリンも買えて(何日も早起きして並んだよ)夫の実家辺りに向かったのが、3月30日だった(その日の画像)

   
   


   
   


   
   



続きは帰宅後に・・ 




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