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備後 銀山(かなやま)城 

2014年02月24日 外部ブログ記事
テーマ:テーマ無し

  備後 銀山(かなやま)城

大体Bの位置です。



まずはJA津之郷支所に集合
この地図には銀山城は載ってません。
右上の俄山弘法大師堂より奥になります。

参加者は総勢70名超え
まずは田邊寺
天正十五年 (1587)この寺で豊臣秀吉と室町幕府最後の将軍 足利義昭が対面しました。
織田信長によって京の都を追われた義昭は鞆の浦から津之郷に移り「御殿山」に居を構えていました。
九州の島津征伐に向かっていた途中の秀吉が対立していた義昭を御殿山に訪ねることはせず、一方義昭も秀吉のところへ出向くこともできません。
互いの面子を保つため中間点のここ田邉寺で会ったらしいです。
太刀を交換し合い、義昭は秀吉に頭を下げ「和解」が成立したそうです。
天正十六年(1588)京都に帰還。将軍職を辞して出家し、昌山と号しました。

 

惣堂神社
神社東側の緩い傾斜の畑地を「御殿畑(ごてんばた)」といい、
鞆の浦からこの地に移った室町幕府最後の将軍足利義昭の居館跡と伝えています。

 東より御殿畑を見る


御殿畑よりの展望
足利義昭はこの風景を眺め過ごしていました。
文禄・慶長の役には、秀吉の要請により軍勢200人を引き連れ
肥前名護屋まで参陣しました。
なお秀吉の御伽衆に加えられました。

慶長二年(1597)大坂で死去。享年61

惣堂神社


県道をひたすら登り、大師堂まで

俄山弘法大師堂
他のグループも合流し百人以上の大混雑


  この峰の頂上が銀山城
築城年代は定かではないが応永年間(1394年〜1428年)に杉原氏によって築かれたと云われる。
木梨杉原氏の一族が築城したのが最初ともいわれ、以後山手杉原氏を名乗って代々居城とした。
『備後古城記』によると、この城は室町時代初期に杉原伯耆守によって築かれ、以後同備前守、同播磨守盛重が居城したという。
 

ずっと登りできついです。

  舗装路から直登する。

城郭図
最新、最詳のものです。


図中央あたりの畝状竪堀。写真では分かりづらいですが
くっきり残されています。


東側最下部に見られる石垣跡。
最も古い工法。1.5m程しか積めず、2段にしてやっと3mの高さ

東側の下部の郭から見上げる。

    長い郭の南端より

本丸中程より北を見る
丁寧に下草、小木が刈り取られ全貌があらわに


    本丸中程から南を見る。
  美しく刈り取られた本丸。城の全貌がよく分かります。
人の努力により山城が蘇っています。

画像一杯になりました。   続く

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