メニュー

最新の記事

一覧を見る>>

テーマ

カレンダー

月別

たかが一人、されど一人

読後感「血盟団事件」中島岳志著 

2013年11月01日 外部ブログ記事
テーマ:テーマ無し

戦前と言うべきか昭和初期に連続的に発生したテロ事件は515事件226事件が特筆大書されがちで、個人的には結果について若干知ってはいるものの、経緯や社会的背景についてはよく理解できていないのが正直なところである。しかも昭和15年生まれの小生からすると、事件については両親や近親者から詳しい説明を受けても良さそうだが、世界大戦における大敗戦を経てまるきり世の中が変わってしまったからだろう、戦前については彼等も口が重くなってしまった。むしろ大分大人になってから、例えば226事件に直接関与させられた落語家の小さん師匠から当時の話を聞いたりする機会があった。この本に主人公の一人である小沼正(井上準之助民政党幹事長・前蔵相の暗殺犯人)には直接顔を合わせた事さえある。会話は全くなかったので今にして見れば惜しいことでもある。近代史を無視するように仕向けられた我々と違って著者は35歳も若い政治学者だけに流石と言わざるを得ない。昭和初期におけるテロ事件続発の本質を見極めようとする真面目さが伺える書物と言える。少し内容に触れる。昭和初期は経済的に不況が続いて、国家財政もおかしくなり、庶民の暮らしは苦しかったとされている。都市部では雇用不安に企業倒産が続き、農村も疲弊して娘を売らざるを得ない貧農があったこともよく知られている。一方で円安によって一部輸出産業に大儲けする企業があったのも少し現在似ているところがありそうだ。そんな環境下にあった昭和3年、茨城県の農村部大洗町に一人の坊さんが出現する。名前は井上日召、後に血盟団の指導者となる人物で、本書の主人公である。略歴もかなり詳しく紹介されている。明治19年群馬県川場村の医師である比較的恵まれた家庭に生まれ、前橋中学から早稲田大学まで進むも中退。幼い頃から少し乱暴ではあったようだが、決して勉強が嫌いであったわけではない。むしろ若い頃から、社会とか己を哲学的に深く考える性質であったようだ。時あたかも日本は近代国家として日清日露戦争を経て世界に羽ばたこうとしている時代。学問をする若者には現代と異なり、何をよすがに生きるべきかを真剣に考える傾向があったのだろう。彼もその一人で、国家の発展と貧富の格差が広がる現実社会の矛盾の原点を探ッたに違いない。宗教に救いを求めるのも当然で、キリスト教やら、禅宗を経て最終的に日蓮宗と法華経に救いを見出す。大洗に来た頃には、既に医者も適わぬほど不思議な力を持つ僧として名高かったらしい。彼には常に国家改造の意識があり、試行錯誤の末辿り着くのが「暴力的改造」によって君側の奸を排除して、天皇と国民がダイレクトに結びついた国家の建設である。当時は貧しい家庭に育ち世を憂う若者が多かったのだろう。先の小沼正もそうだが、井上の理想実現に一命を投げ打つ覚悟の青年が徐々に集まってくる。更には東大京大や陸海軍にまで同調者が出現するに至ってしまう。結局大洗に来て4年後には「血盟団」を組織して指導者となり、実際にテロを実行したり515事件や262事件のきっかけを作ったと言っても過言ではあるまい。血盟団テロの標的は10数人に及び一人一殺を計画するも、中途で井上をはじめ全員逮捕されて、10年から終身刑まで相当厳しい刑を宣告されるも何故か恩赦などで全員数年で釈放になってしまう。更に、血盟団に関わった大多数が戦後右翼の大物に祀り上げられ、先生と呼ばれたのは理解するとしても、戦後の政治家がこのような人物を崇め奉ってきている事実があるが、本書ではその点について触れることをかなり遠慮しているように思える。国家改造実現のためには、先ず諸悪の根源を排除しなければならないとの思い。戦後学生運動の赤軍派の心情も似ているのではと思うが、思いを共有するものが数人集まっても、必ず仲間割れが起き、当初の目標は脇にいやられて内ゲバが始まる。現代の反原発運動なんかでも同様らしい。いくら読んでもこの点だけが理解できぬ。面白味は全く無い本であることは断っておかねばなるまい。

>>元の記事・続きはこちら(外部のサイトに移動します)





この記事はナビトモではコメントを受け付けておりません

PR







掲載されている画像

    もっと見る

上部へ