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津山ええとこ来てみんちゃいモニター 洋学資料館 

2013年10月05日 外部ブログ記事
テーマ:テーマ無し

津山ええとこ来てみんちゃいモニター 
洋学資料館
 
津山を代表する洋学者の業績を顕彰している
津山洋学 資料館
建物は「津山洋学五峰(宇田川玄真・箕作阮甫・津田真道・宇田川玄随・宇田川榕菴)」をモチーフに五角形を基本として設計されたとされる。   Wikipedia

    
最初綺麗なGENPOホールで説明があったのですが
イタリヤ製の椅子と聞いたあたりから全く記憶がありませんzzzzzzzzz
 
            プロローグ室
江戸時代、西洋の知識はオランダによって長崎・出島にもたらされ、「蘭学」が生まれました。プロローグでは知の入口となった出島をイメージし、床には絵図を描いています。
プロローグ室入り口の模様 手書きです。
 
           
 
  ちょっとした悪戯     花の中にドクロがいます。

                 展示室内は撮影禁止
                   展示室[1]
       「人体に隠された科学への扉」
『解体新書』など蘭学が始まったころの資料や、津山藩にはじめて蘭学をもたらした宇田川玄随、そしてその跡を継いだ玄真・榕菴の業績を紹介しています。

                      展示室[2]
              「世界へと開かれていく眼」
箕作阮甫の生涯と、その跡を継いだ省吾、秋坪を紹介します。

(展示室[3]
「日本の近代化と津山の洋学者」
日本の近代化に貢献した津山の洋学者たちに迫ります

第2展示室にて 
解体新書に見入るモニターの面々       




 
 
           津山洋学五峰
 
宇田川玄随
(うだがわ・げんずい)
代々江戸詰の津山藩医を勤める宇田川家に生まれる。元来漢方医だが、桂川甫周や杉田玄白・前野良沢らと交流して、蘭学へと転向する。                
甫周のすすめでヨハネス・デ・ゴルテル著の『簡明内科書』を翻訳して、日本初の内科書『西説内科撰要』として刊行、当時の内科医に大きな影響を与えた。      ほかに『遠西草木略』、『東西病考』などがある       
 
宇田川玄真
(うだがわ・げんしん)
1769−1834
伊勢の安岡家出身。
当初は杉田玄白の養子となったが離縁され、後に宇田川家の養子となる。
幕府の天文台の翻訳員としてショメール百科事典の翻訳に携わった。江戸時代のベストセラー医学書『醫範提綱』のほか、『和蘭薬鏡』、『遠西醫方名物考』などを著した。江戸において「蘭学中期の大立者」と称された。
        
宇田川榕菴
(うだがわ・ようあん)
1798-1846
大垣藩医江沢養樹の長男で宇田川玄真の養子となる。
幼少より博物学を好む。『植学啓原』・『舎密開宗』などを著し、日本における近代科学の確立に多大な貢献を果たした。また、西洋音楽理論や音声学など蘭学研究の範囲は広く、コーヒーを日本に紹介したりもしている。幕府天文台の翻訳員としてショメール百科事典などの翻訳にもあたる。シーボルトが江戸に来た折に親しく交流している。                           学術用語に新しい造語を作って翻訳した。        
酸素、水素、窒素、炭素、白金といった元素名や元素、酸化、還元、溶解、分析といった化学用語、細胞、属といった生物学用語は宇田川榕菴の造語である。             
なお、coffeeの日本語表記である「珈琲」は、この榕菴が考案し蘭和対訳辞典で使用したのが最初であると言われている。     
箕作阮甫
(みつくり・げんぽ)
1799−1863
津山西新町で代々町医師を営む家に生まれる。    
父の代から津山藩医に取立てられた。          
京都に出て医学を学んだ後、宇田川玄真の門に入り、以後洋学の研さんを重ねる。幕府天文台翻訳員となり、ペリー来航時に米大統領国書を翻訳、また対露交渉団の一員として長崎にも出向く。             
 
東京大学の前身である幕府の「蕃書調所」(ばんしょしらべしょ)の初代教授となり、多くのほん訳などにより、西洋の地理・歴史、法律、軍事の基礎的知識を紹介した。
蕃書調所の首席教授に任ぜられ、幕臣に取立てられた。                               
 
日本最初の医学雑誌『泰西名医彙講』をはじめ、『外科必読』・『産科簡明』・『和蘭文典』・『八紘通誌』・『水蒸船説略』・『西征紀行』など阮甫の訳述書は99部160冊余りが確認されており、その分野は医学・語学・西洋史・兵学・宗教学と広範囲にわたる。               
 
若き日の勝海舟が箕作阮甫の門を叩きましたが箕作は性急な江戸人には蘭学は向かない、拙者(せっしゃ)も忙しくて、そなたに教えている暇がないといって入門を 断ったそうです。                             
津田真道
(つだ・まみち)
1829−1903
津山藩の料理番の家に生まれるが、幼少時から学問を好み、家業を嫌って江戸に出る。箕作阮甫・伊東玄朴に蘭学を、佐久間象山に兵学を学ぶ。蕃書調所の教授手伝となり、オランダに留学。帰朝後、明治政府に出仕した。また、明六社に参画し、明六雑誌に種々の論文を発表。元老院議官を経て、衆議院議員・貴族院議員に当選、法学博士を授けられ男爵となった。         
エントランスの津山洋学五峰像


入館料/大人300円
 
綺麗な洒落た資料館です。入館料も安いです。
津山からこれだけの学者が出たのにも驚きです。  

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