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たかが一人、されど一人

夢とお金 

2013年07月12日 外部ブログ記事
テーマ:テーマ無し

カラスの鳴かない日はあっても、景気だことの経済がどうしたこうしたと聞かない日は無い今日この頃である。余り貧乏そうには見えぬ小父さん方が、現代日本にとって最大の課題は経済にありと仰っている。経済的に恵まれる可能性を見切った若年層に希望を与えるのは、景気の回復なのだろうか?子供たちに「足るを知れ」と頭ごなしに言ったところで聞く耳は持たないかもしれない。幸い我が家では子や孫から、あれが欲しいこれが欲しいと強く要求されたことが無い。孫が小学生の頃遊びに来ると、近くのスーパーに連れて行き、カード(怪獣のようなへんてこな絵が描かれたトランプのようなもの、通常1パック150円だった)を一人450円までと決めて買ってやるのが、彼等にとってもこちらにとっても楽しみだったのが懐かしい。高校に入ったら携帯スマホを持つのを楽しみにしていたと風の便りに聞いたが、ねだられることも無く自分の小遣で買ったらしい。保証人が必要だったそうだが、婿さんが同行してくれたそうだ。娘たちが運転免許を取得した時、一瞬車が欲しいみたいことを言ったらしいが、これも婆さんに一喝されてお終いになったらしい。何事も同じと思うが、欲を言いだせばきりが無かろう。程々のところで満足していては進歩発展がないことを心配する向きもあろう。分からぬわけではないが、現状以上に生活の向上を目指す人の割合とはどの程度のものなのだろうか?階級制度がある訳ではないとは言え、あの地域とかあのマンションに住みたいなんて人はいるだろうが、その方がむしろ特殊では思ってしまう。サラリーマン諸氏からすれば今でも出世欲なんてものがあるのだろうか?若かりし頃は確かに持ち合わせていた。1963年に入社したのが僅か40人にも満たないワンフロアのちっぽけな広告会社だったが、部長が一人(総務経理担当)、他の管理職数名は全員チーフと呼ばれていた。今でこそフラットシステムでディレクタだのマネジャーだの訳の分からぬ呼称が流行りのようだが、当時とすれば出来立ての会社で、社員が若すぎて課長と呼ぶのも恥ずかしかったのかもしれぬ。確か入社3年目くらいには憧れのチーフになって3人部下を持った。目出度く管理職である、月3千円くらいの手当てを貰ったかもしれない。当時は目を見張るような高度成長そのものだったが、年収は100万を少し越しただろうかてなものだ。その後も車を持ちたいとか家を持ちたいとの夢はあった。しかしその夢は意外と早く実現することになる。車は当時の会社の方針で、営業マン一人に1台を目標にしていたので、取り敢えずグループに1台車が割り当てられ、チーフの私用で使うことが許可されるようになる。家の方は全く親のお陰である。父が退職した際に東京に来るつもりで購入した家に、父の再就職先が長野で決まったので、代わりに入居できた。小生の場合は車と家、この夢があっさり実現したので、残る夢は殆ど無くなったと同じだ。強いて言えば、外国旅行も流行り始めていたので、少しはと思ったが、何回か行くうちに夢が覚めてしまった。所詮は外国語を話すことが出来なかったせいだろう。こんな事を書いたのは、たまたま図書館で手にした2か月ほど前の週刊誌の記事が懐かしかったからだ。昭和37年5月(小生入社の1年前)発表の「所得番付のニューフェイス」<画家の部> (当時は所得額で公表)1位 洋画家 林武 1900万円 2位 漫画家 手塚治虫 1250万円所得倍増計画の真只中のサラリーマン年収は 34万1千円(国税庁調査)因みに年収300万円の社長さんも少なかったらしい。

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