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平成の虚無僧一路の日記

旧主の帰城に関する農民の請願書 

2013年07月11日 外部ブログ記事
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会津の農民は重税にあえぎ、藩主「容保」を恨んでいた
というような論調が一人歩きしている中、全く逆の史料を
見つけました。

『会津史談会誌』第21号(昭和15年9月)
「旧藩公(容保)の御帰城に関する領内民衆の請願書」

明治2年12月。「容保」公は東京で謹慎。実子「慶三郎
(容大)」に「斗南三万石」の仕置きが下された後のこと。

「東谷地村、上西蓮村、赤崎村、下谷地村、中目村」の
百姓惣領代 5人と 若松町人惣代 4人 連名で、民政局や
太政官宛に出されたもの

「恐れ乍ら書付をもって嘆願奉り候」で始まり、
会津が開城し、容保公父子はじめ家臣がそれぞれ
預けられ、謹慎させられたことは、下賎の身には
弁(わきま)え難いことですが、一途の直心より
日夜寝食を断ち愁眉を相悩ましおる民、たって
愁訴懇願奉るべき人数を押し止め、私共申し合わせ・・・・・

そして「御旧主様より蒙った御仁政、御厚鴻恩」として
34項目も挙げている。

第1項が「九十歳以上の老人へ御扶持米下され置き候事」
第2項は「孝子、義僕、節婦の賞賛」
第3項は「七十歳以上の者への饗応」
第4項は「八十歳以上の者への歩役御用免除」

そして「子供が三人以上いる家庭への扶助」「病気の者への
手当て」「窮民への臨時手当て」「独居老人への扶助」
「雨が降らず、また日照りが続けば、神社での祈祷」
「身弱、障害者には賦役、ご用免除」「火事で被災した
ものには過分の手当てと貸付金」と、細事にわたり
34項目も挙げている。

そう会津は日本で最初に“社会福祉政策”に取り組んだの
です。

明治15年(1882年)県令として赴任した三島通庸は、
赤子から老人まで情け容赦なく道路建設に駆り出した。
労働に加われない者には 代わりに金品を納めさせた。

明治になって、日清、日露戦争で日本は莫大な借款を
抱え、農民はますます疲弊し、田畑や娘を売る羽目に
なる。

明治新政府にくらべれば、これを見る限り、藩政時代
の方がはるかに良かった。会津藩は、漆器や朝鮮人参の
輸出で、飢饉の時もなんとか切り抜けてきたのでした。

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