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平成の虚無僧一路の日記

「西郷四郎は頼母の実子説」の検証 

2013年07月12日 外部ブログ記事
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『会津会会報』第114号(平成20年)に 「小池明」氏により
「西郷頼母と きみ」の写真が掲載されていました。
明治5年と明治19年に撮影されたもの。
(よくぞ、このような写真が出てきたものと感心します)

小池氏の説明によれば、「文久2年(1862) 西郷頼母は
藩主(容保)に京都守護職の辞職を迫って勘気を蒙り、
家老職を解かれて、会津城外の長原村に【栖雲亭】を建て、
そこに蟄居した。しばらくして、そこへ 伊与田為成が
訪ねてきた。伊与田為成(350石)は 京都勤番中、妻が
病死したことで、殿から格別の暇をもらい、会津に帰る
ことになったが、その際、殿から「頼母の栖雲亭を訪ね、
『余は汝のことを忘れてはいない』と伝えよ」と言伝を
託されてきた。

(『八重の桜』でも、そのようなシーンがあったような)

そして、伊与田為成は、その後もしばしば栖雲亭を
訪ねて西郷と昵懇となり、娘「きみ」に西郷の身の
周りをさせるほどにもなった。

と。なるほど、西郷頼母の栖雲亭蟄居は5年に及び、
その間、「きみ」と情を通じるようになり、一子が
生まれたとしても不思議はない。


星亮一『西郷四郎の生涯』によれば、「行儀見習いの
名目で西郷家に仕えていた伊与田喜平衛の娘 きみ と
情を通じ、密かに生ませた子を 頼母の実弟 山田
陽次郎の配下の志田貞二郎に預け育てさせた。

慶応4年(1868)8月23日、西軍の侵攻で、頼母の
母、妻、娘たち21人が自刃するが、「その前日、
妻の千重子が用人を津川に差し向けている事実が
ある」とも。

頼母も四郎は写真でみても、小柄で、顔つき、目鼻
口元そっくりである。実子説は限りなく真実に近い。

『八重の桜』でも八重さんは、しばしば栖雲亭を
訪ね、頼母と仲良くやってますが、危なかったナシ。

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