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平成の虚無僧一路の日記

「飯沼貞吉」決死の電線敷設 

2013年07月11日 外部ブログ記事
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『会津史談会』会誌 第23号(昭和18年2月)で見つけました。

「飯沼貞吉」が逓信省に勤めていた時の話です。

(昭和15年10月8日付「読売新聞」に掲載されたという
「八木鐘次郎氏」の談話を 要約しました)。

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時は明治27年7月25日、朝鮮半島の豊島沖で 日清戦争の
火蓋が切られた。そのニュースは「釜山電信局」から
ただちに東京に送られた。だが、日本軍はすでに 仁川、
京城まで進んでいるが、海岸線には支那軍が上陸していて、
陸路の通信は途絶えていた。

そこで、電信敷設の任に当たったのが「飯沼貞吉」改名
して「貞雄」。彼は 300名の人夫を連れて、敵地の中を
京城まで電信設備の敷設という難事業に向かった。

出発の時「危険だから、ピストルを持って行くように」と
仲間に言われたが「飯沼貞雄」は「私は白虎隊で死んでいる
はずの人間ですから、命は捨ててますよ」と 笑って答え、
「元気で行ってきます。きっとやりとげますよ。船を
使わんでも、東京と通信ができるようにしてみせますよ」と
明るく旅立っていった。

白虎隊生き残り「飯沼貞吉(雄)」の決死の電信設備の
敷設が、日清戦争の戦況を逐一東京に伝え、勝利へと
導いたのだった。

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