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平成の虚無僧一路の日記

農民たちの戦争 

2013年07月10日 外部ブログ記事
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明治元年(1868)、会津藩が降伏してからわずか10日後の
11月16日、会津領内の各地で一揆が起きた。「会津世直し
一揆」。農民は「ヤーヤー」と言いながら打ち壊しを行ったため、
「ヤーヤー一揆」「ヤアヤア一揆」とも呼ばれ、暴動は
約2ヶ月続いた。

このことから、「会津藩主 松平容保」は「水戸黄門に出てくる
悪代官のような、血も涙も無い暴君だった。農民はその悪政に
苦しみ」などと書かれたブログもあったが、さてさて。


会津藩は、幕末、樺太・蝦夷地・江戸湾の警備に加えて、
京都守護職を拝命し、多大な財政負担を強いられていた。
1000名の藩士が毎年交代で京都に上る。その旅費と滞在費
だけでも、現在の価値に換算して350億。その上、外国
からの大砲、鉄砲、弾薬の購入で、借金は総額550億円にも
膨れ上がっていた。その負担は、農民に重税としてのしかかって
いた。

『八重の桜』でも、しばしば重役連中が口にするが「もう、
そんな金は無い」。会津では「藩札」の乱発や「贋金づくり」に
まで手を染めていた。その結末が、会津戦争の敗北。西軍に
よる略奪、放火である。戦争は士族の意地の張り合い。

農民の怒りはイッキに爆発した。村役人や豪商を襲っては、
屋敷や家財道具を打ちこわし、検地帳・年貢帳・分限帳を
奪って焼き捨てた。


さて、今日語られる日本の歴史は、ほんの一握りの支配者層の
政権争いにすぎない。幕末の日本の人口は、3,000万人。
その内、歴史に名を残す人は ほんの100人。『八重の桜』の
キャストも「多すぎて、誰が誰だかわからん」という声もあるが、
50人もいない。

会津戦争当時、会津藩領内の人口は24万人。会津藩士で
100石以上の高士はわずか590名。1000石以上の家臣は
19人もいたのに、会津戦争で語られるのは「西郷、田中、
神保、萱野」の 4名のみ。他の15人は、名を残して
いない。(いったい 何をしてたんだべ)


100石未満の「下士」や足軽身分まで含めると会津藩士は
4,500名もいて、内 3,000人が戦死・自刃した。2/3、
6割の藩士が亡くなった。全滅に近い死亡率だ。

家族まで含めると士族は2万人。士族以外の一般人は
22万人もいた。これだけいれば、対応もさまざま。
山中に逃げ隠れていた者が大半。恐いものみたさに
見物に出かけて行って殺された者もいた。

徴用に応じて(お金目当てに) 2000人ほどの農民が
戦争に駆り出されている。兵糧や武器弾薬を運ぶのは
士族ではなく彼等の役割だった。

また、義に感じて、率先して志願して戦った者も
200人ほどいた。

「自分たちの暮らしを守るためには」と一隊を組織して
西軍と戦い、撃退した南御山の農民たちもいた。

西軍に間道を手引きした者。小田山の好立地を
教えた者。彼等は後に“裏切り者”として殺されたり
している。

自刃した白虎隊士の刀や着物を剥いでいった農民もいた。
会津藩士の戦死者の遺体は、みな着物、刀を奪われ、
裸同然で野ざらしにされていた。奪ったものは
骨董市で売られた。わが子の刀を見つけて、高い金を
払って買い戻した白虎隊士の母の話は気の毒。

その中でも、見るにしのびず、密かに遺体を埋葬して
くれた農民もいた。私の先祖の「牧原奇平」他12名の
遺体は、強清水の村民たちが、街道脇の茂みの中に
密かに埋葬してくれていた。それが 昭和 35 年頃、
村人の子孫の言い伝えとして明らかになり、叔父たち
とともにお礼に行ったのを覚えている。

会津藩が降伏して、松平容保が西軍に護送されて城を出、
謹慎場所までの道すがら、農民たちは、顔もあげず、
平常のごとくに 畑仕事をしていたという。

その一方、容保の謹慎場所に 芋を 一篭 届けた“忠義の
農民”もいた。板垣退助は「芋一篭届けたくらいが、
なんの忠義の志か」と一蹴したという。


ヤーヤー一揆の矛先は、何も会津藩士だけにではなく、
ほしいままに会津を蹂躙した新政府にも向けられて
いたと私は言いたい。

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