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平成の虚無僧一路の日記

会津戦争、農民の怒り 

2013年07月09日 外部ブログ記事
テーマ:テーマ無し



「福沢諭吉」が「立国は私」と論じたように、明治維新は
被支配者層の反乱・革命ではなく、所詮「士族」の政権争い。
農民にはえらい迷惑。



8月日21、22日、石筵の村々は 会津藩兵により焼かれた。
16集落453戸のうち母屋が159戸、ほかに土蔵、小屋、
隠居屋など112棟。退却する時は敵に宿所や糧食を与えない
ように村々を焼き払うのが、戦の常套とはいえ、焼かれた方は
たまったものではない。

一方、西軍も会津藩領にはいると、略奪分捕りの後に
「愉悦的」な放火を繰り返した。

長州藩士「杉山素輔」は、「八月二十三日、猪苗代から
十六橋にいたる間の村々を焼きながら進軍した」と書いている。
この中には野口英世の生家もあった。

彼らは戦勝気分で 村々を愉しみながら焼いていったのであろう。
街道筋の村ばかりでなく、集落を見つけるごとにこれを焼き、
街道からはどんどん離れ、山ぎわや田んぼの中の道を通って
ようやく十六橋に着いたという話である。
 
こうした被害をこうむった恨みが 村人同士の争いとなっている。

会津藩兵に家を焼かれた「石筵の農民」8人が、その腹いせも
あってか、西軍の道案内をして会津にはいった。そして、
役目を終えて、意気揚々 村に帰る途中、猪苗代の村人に
打ち殺されたという。猪苗代の農民は西軍により、家を
焼かれていたからだ。

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