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平成の虚無僧一路の日記

語られなかった「飯沼貞吉」のその後 

2013年07月09日 外部ブログ記事
テーマ:テーマ無し



自刃した白虎隊で唯一人生き残った「飯沼貞吉」は、
蘇生してから後のことを多くは語らなかった。
そこで、語られた話から「定説」が作られたが、
そこには抜け落ちた話があった。

飯沼貞吉は「たまたま息子を探しに来た印出新蔵の
妻ハツに助けられ、背負われて塩川に辿り着き、
旅館で介抱を受けた」というが、まず、一晩で
婦人が 少年とは言え、重傷の男子を背負って、
一晩で塩川まで行くのは不可能。また当時 塩川に
旅館は無かった。

貞吉の話には、塩川に行くまでの何日間かの話が
欠落している。それを補う史料が、40年ほど前、
飯盛山近辺の古い農家を取り壊した際、屋根裏から
古い鉄砲とともに出てきた。

それは「自分が貞吉を発見し、彼を不動滝の奥の
岩屋に連れて行き、毎日食事を届けて、そこで
傷が治るまで一ヶ月ほど? 匿った」というもの。

それには最後に、「飯沼氏は、農民に助けられた
ことを隠そうとしているのか、士族の印出ハツの
名はあげても、自分にはお礼の言葉もない」と
苦言が書かれてあった。

私は、このニュースを「歴史読本」で見たが、
その後もずっとこのニュースは無視され、貞吉の
証言だけが世に出回っている。


最近、もっとすごい話が出てきた。貞吉は、明治元年、
長州藩士「楢崎頼三」に連れられて、長州小杉(現山口県
美弥市)に行き、そこで「楢崎氏」に養育されたというもの。
“仇敵”長州人の庇護を受けたことなどは、彼は一切語って
いない。しかし、本当だとするとすごい美談だ。



貞吉は、その後明治3年、静岡の学問所に入学。
明治5年(1872年)工部省技術教場(東京)に入所、
電信技師となり、同年10月5日には赤間関(山口県下関市)に赴任。
最初の勤務地が長州山口県だった。

その後、国内各地で電信の開設に尽力し、1894年(明治27年)
日清戦争では、大本営付き 陸軍歩兵大尉として出征。
その電信技術が日清・日露戦争の勝利に多いに寄与した。

1905年(明治38年)札幌郵便局工務課長となり、1910年(明治43年)に
仙台逓信管理局工務部長に就任、日本の電信電話の発展に貢献した。

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