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平成の虚無僧一路の日記

慶応中等部は会津藩下屋敷のあったところ。 

2013年06月02日 外部ブログ記事
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NHK「八重の桜」で放映後「三田の会津藩下屋敷跡」として
慶応大学の三田校舎と中等部の間の坂道が紹介されていました。

当(牧原)家の系図に「初代牧原只右衛門は御田の下屋敷で生る」と
ありました。「御田」が「みた(三田)」のことと気づいたのは
最近のことでした。しかも、私が通っていた「慶応中等部」が
会津藩下屋敷の跡地と知った時は、もう天地がひっくり返るほどの
驚きでした。私が慶応中等部に入れたのも、先祖の導きかと。

「会津藩下屋敷」は、万治元年(1658)幕府より拝領し、
三代藩主となった「正容(まさかた)」(実は「保科正之」の
六男)は、この下屋敷で育てられ、わが先祖も小姓として仕えた
のでした。

その下屋敷は、「慶で応中等部、慶応義塾女子高や、慶応の
綱町グラウンド、そして三井倶楽部から古川の河岸 までの
32,972坪という広大な敷地だったのです。
「八重の桜」でも出てきましたが、ここで軍事訓練ができた
のでした。

そして、山手線田町駅に近い「NEC本社」は、幕末に庄内藩が
焼き討ちした「薩摩藩邸」でした。NEC本社前には、今日放映
された「勝海舟と西郷の会見の地」の石碑があります。

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