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今八幡宮 

2013年05月02日 外部ブログ記事
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能楽堂

能楽堂奥の階段を登ると今八幡宮境内に出ます。


今八幡宮

文明三年(1471)大内政弘が山口の鎮守と定めて市内の朝倉八幡宮を遷して合祀し、社号はそのままに主祭神を応神天皇とし、他に三座が加列される。その後、文亀3年(1503)大内義興が社殿を造替、明との交易で得た莫大な財力を象徴する荘厳なもので、現在国の重要文化財に指定されている
              本殿 後

 
          本殿後の八柱神社
今八幡宮氏子のうち、八ヶ町内にそれぞれ鎮座していた摂末社八社を、明治40年の内務省令により氏神神社に合祀することとなり、うち一社の社殿を現在の地に移設して八柱神社と称す。


I型(前向き)の狛犬で、吽阿の配置になっています。
両狛とも、真正面を向いておらず元は阿吽の配置で横向きだったと推察
       阿                 吽

 
 

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
           文政六年(1823)癸羊(みずのとひつじ)

          吽                           阿 
 

この楼門は左右に切妻造りの翼楼が附属し、
楼門が拝殿を兼ねた形状です。
全国でも珍しく、山口にしか見られないもの

       拝殿前 神馬像

拝殿前 狛犬  昭和四十三年
     吽                   阿

                      
                  石段    


石段下の狛犬

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 
当宮は大内氏の居館(大内館)北東の鬼門除けにあたる守護であり産土神であることから、山口町の総氏神として「山口総鎮守」の尊称を賜り、歴代当主の崇敬は極めて篤く、そのことは『大内氏壁書』の文明10年(1478)条に大内政弘より布達された「今八幡宮条々」において当時の広大な神域を維持・保護するため種々の触書が出されたほか、常に当主の参拝や寄進が行われた。
 
大内義隆はその財力を誇示する巨大な鰐口を寄進しているほか、神道に強い感心を寄せて都から吉田兼右を招聘し、宮司共々神道伝授を受けている。さらに貴族風な義隆は網代車で社参するなど、その権勢は山口を中心に最高潮に達した。   ホームページより

大内氏滅亡後も、引き続き毛利氏により当宮は篤く保護され、神領が寄進されたほか、修繕の際の費用は藩より支弁されている。また一門の病気平癒祈願が行わるなど、当宮に対する尊崇が判る。

 


   
 

                   本 殿
向拝を付した三間社流れ造りで、拝殿を介して楼門までを一直線上に連結させる構造。これは全国的にも山口地方だけに見られる独特な様式で、近郷にも見られるが当宮の建築年代が最も古く、豪壮な造りであるのは創建当時の大内氏の強大な権勢と財力を示している。この様式は、概して広くない限られた土地を有効に活用する必然から生じた合理的な工夫である。

幕末には、七卿を財政面で支援したほか、社務所において堀真五郎、久坂玄瑞らが密談を重ね、堀を総督とする諸隊のひとつ八幡隊が結成。屯所になり、四境戦争などに大いに活躍した。



本殿及び拝殿上部の蟇股は、天体や宝珠など類例の多くない図案で構成され、形も室町期特有のものから厚みのある桃山期へ移行する過程が表れており、美術史の見地からも貴重な史料です。
         
 
 
 

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