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平成の虚無僧一路の日記

虚像の「力道山」 

2013年04月14日 外部ブログ記事
テーマ:テーマ無し



ネットを検索していて「力道山は朝鮮人だった」と初めて
知った。日本名は「百田 光浩(ももた みつひろ)」だが、
朝鮮名は「金 信洛(キム・シルラク)」。そのことは、
公然の秘密だったようだ。相撲界に入った時は、朝鮮人と
して登録され、「朝鮮人、朝鮮人!」と差別を受け、
「朝鮮人は横綱になれない」との不満から プロレスに
転向したようだ。

そして、得意の空手チョップで外国人レスラーを次々に
やっつける雄姿は、敗戦国の日本人にとって「ヒーロー」と
なった。日本人のヒーローは「日本人」でなければならず、
そこで「力道山」が朝鮮人であることはひた隠しにされたの
だという。なんだか悲しい話だ。

2004年、韓国映画で『力道山』(ソン・ヘソン監督)というのが
あったそうな。韓国人の監督により、韓国人の俳優が演じた。
相撲界での差別に暴れまくる力道山、外国人レスラーを
なぎ倒す力道山に涙を浮かべて狂喜する日本人、力道山の
真実をあますことなく再現した映画。その映画のキャッチ
フレーズが「日本人が一番力道山のことを知らない」と
あった。本当にその通り。

力道山は、殺される半年前、日航の国際線スチュワーデス
「田中敬子」さんと結婚していた。その「田中敬子」さんが
『力道山の真実』(力道山の妻、田中敬子)
という本を出版している。

「婚約が決まり、『朝鮮の出身だ』と初めて打ち明けられた
とき、主人の涙を見ました。泣いたのを見たのは 私が
プロポーズを承諾したときと2回だけです」。

「死の真相」についても、「手術後も暴飲暴食をしていたから」
というのは嘘です」とのこと。どうやら、「常人とは異なる
体格、腹筋の厚みに、麻酔薬を2倍投与したため」とか。

手術室に入る前の最期の言葉は「オレはまだ死にたくない」
だった。

田中敬子さんは『力道山の慟哭』という本も出している。

亡くなる前の力道山は、すでに40歳を越え、体力にも翳りが
出てきていた。

「どうせ死ぬなら リングで死にたい」と洩らしていた。

力道山が刺される2日前、昭和38年12月6日、名古屋の
金山体育館での控え室で「片輪者になって生きていたって
しょうがない。恥さらしだ。本物のポンコツになってしまは
ないうちに引退しないと」としんみり語っていたそうな。

その時、力道山は 右腕の筋を切って、空手チョップの威力も
なくなっていた。「空手チョップのない力道山なんて意味が
ねえ!」と力道山は自嘲した。

12月8日は「パールハーバー、真珠湾攻撃の日」。この日
力道山は相撲協会の高砂親方ら相撲関係者の来訪を受けた。
「大相撲のロスアンゼルス興行」を、興行師としても
実力をつけていた力道山に頼みにきたのだった。かつて
自分を追い出した角界が、自分に頭を下げにきた。力道山
にとっては嬉しい出来事だった。力道山は上機嫌で料亭に
親方達を招待し痛飲したという。その後、TBSのラジオ番組は
酔っ払って収録ができなかった。その後、力道山は赤坂の
ニュー・ラテン・クォーターに向かった。そこは行き着けの
店ではあったが、力道山のバックにある「東声会」とは
対立する「住吉連合系」の“シマ”で、その「村田」とは
以前からトラブルがあった。泥酔していた力道山は、この
「村田」に「足を踏んだ」と言いがかりをつけ、袋叩きに
した。先に手を出したのが力道山だから、村田は正当防衛
だが、“ヤクザもん”だから「7年」の判決となった。

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