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西教寺 

2013年03月30日 外部ブログ記事
テーマ:テーマ無し

 

聖徳太子が恩師である高麗の僧慧慈、慧聡のために創建されたと伝えられています。
その後、久しく荒廃していましたが、慈恵大師良源上人が復興、念仏の道場としました。恵心僧都も入寺、修業されたところから次第に栄えるようになりました。
鎌倉時代の正中二年(1325)に入寺された恵鎮(円観)上人は、伝教大師が畢生の事業として提唱された大乗円頓戒を復興、その後百有余年を経た文明18年(1486)に真盛上人が入寺されるに至り、堂塔と教法を再興、不断念仏の道場とされました。以来全国に約四百余りの末寺を有する総本山となりました。
 
元亀二年(1571)、織田信長による比叡山焼き討ちの際に西教寺も焼失しました。
本堂は焼失の3年後に復興し、焼失した旧本尊の代わりに、浄福寺という寺から阿弥陀如来像を迎えて本尊としました。
 
比叡山焼き討ちの後、近江国滋賀郡は明智光秀に
与えられ、光秀はこの地に坂本城を築きました。  
 
光秀は坂本城と地理的にも近かった西教寺との関係が深く、寺の復興にも光秀の援助があったと推定されています。                               
光秀が戦死した部下の供養のため、西教寺に供養米を寄進した際の寄進状が寺に現存しています。      
境内には光秀の供養塔が立っています。
 
 
西教寺山門
坂本城の城門を移築したものだといわれています

門をぐると150m程のまっすぐな参道が伸びています

       見事な石垣が続く参道を上がる

 
             宗祖大師殿


唐門 
大正十七年に造られました 高さ約8M、間口4.2M
入母屋造り、桧皮ぶき

龍、獅子、猿など多彩な彫刻で飾られています。

             西教寺の寺紋 三羽雀


 
 
 


 
 
 
 
明治十一年、真盛宗別派独立に伴い、本堂南の一段低い地に建設されました。                 
入母屋造り、正面軒唐破風付き

宗祖大師殿付近から琵琶湖を見る



さらに石段を上がり西教寺本堂へ

↑の反対側 石垣と宗祖大師殿

桁行七間・梁間五間・総欅入母屋造の豪壮な本殿は、江戸時代の元文四年(1739)に上棟落成。      
用材は紀州徳川家から寄進されたものです。      
正面の欄間(十六羅漢)や須弥壇(籠彫)はすべて欅の素木造りで、江戸初期の特色を表す豪華な装飾が施されています。                          

 

 
 
 
 
 
 
 


 
 
 
 

 
明智光秀が寄進した坂本城の陣鐘が収められているそうですが、下からは見えませんでした
 
 
 
 
 
 

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