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平成の虚無僧一路の日記

会津藩の砲術指南 

2013年03月25日 外部ブログ記事
テーマ:テーマ無し



山本覚馬の家は代々「会津藩の砲術指南」でした。
ネットでは「長沼流砲術指南」と書いてあるのも
見つけましたが「はて?」です。

「長沼流」は、江戸時代初期に軍学者「長沼澹斎」が
開いた兵法の一派ですが、甲州流をベースに明の兵制を
加味し、さらに西洋の鉄砲も重要視しており、「鉄砲を
弓隊の三倍用意せよ」と説いています。

ですから、江戸時代の半ば「長沼流」は 最新鋭の
兵法で「山鹿流兵法」と人気を二分したと言われます。
会津藩では 天明年間(1781〜88)に採用されました。

しかし「長沼流」は兵法全般であって「長沼流砲術」と
いうのは、耳にしません。

会津藩での砲術は、「自由斎流、荻野流、永田流、
稲留流、種子島流、知徹流、一味流、新格流・棒火矢術、
諸葛流、高島流、夢想流、石橋流矢鉄砲毒火矢術、
堅毘流、北条流」と 15も 流派があって、それぞれに
「師範1名」が 登録されていました。

その中でも「稲留流」は人気があり、薩摩藩でも
採用されています。

さて、当家の祖「牧原源兵衛直矢」は「稲留流砲術指南」
でした。その父と長兄は「山鹿流兵法指南」でした。
「直矢」は三男坊でしたので、「砲術家」を目指したので
しょうか。

山本家は「高嶋流」だったという書き込みもありました。
いずれも「火縄銃」だったのですが、山本家はいち早く
「洋式の最新式銃」の研究に取り組んだのでした。

牧原直矢の次男「宗仲」は、山本覚馬らが京都に建てた
「洋学所」にはいり、西洋医術も学びます。そして
「蛤御門の変」で負傷した会津藩士の治療に当たる
のですが、過労で病死し、京都黒谷金戒光明寺の
「会津藩墓地」に埋葬されました。23歳でした。

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