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ZRX1200S城

水晶(すいしが)城 

2013年03月18日 外部ブログ記事
テーマ:テーマ無し

               水晶(すいしが)城
平安時代末期、源平合戦の頃には源氏に味方していた佐々木国定が城主となり、この城に籠って平氏に抵抗したとされる。
 
戦国時代になると、安芸西部に勢力を伸ばしていたの大内氏の勢力下に入った。
厳島神主家の当主・藤原興親が永正五年(1508)に
京都で死去ですると、大内義興は厳島神主家の所領を接収、永正十五年(1518)に大内氏の重臣の
杉甲斐守が水晶城の城番となった。
 
大永三年(1523)厳島神主家の一族である友田興藤が、神主家の家督を相続できなかったことに不満を持ち、謀反を起し水晶城を攻撃し、城を捨てて逃走した
杉甲斐守を討ち取った。
 
乱の鎮圧後、水晶城には改めて麻生鎮里が城番として入城し、周辺の支配にあたった。
 
しかし、天文二十三年(1554)に毛利元就と、陶晴賢が敵対すると毛利軍は水晶城を攻撃し、麻生鎮里は降伏した。
 
毛利氏の支配が確定的となると、この水晶城よりも海に面した桜尾城が重要視されるようになり、また、城の規模が巨大過ぎて多くの人員が確保できないと容易に落城するという面も考慮され、この水晶城も廃城となったと思われる。
  
  縄張り図
標高132mの山の頂上部を主郭とし、麓に向かって曲輪を配置した連郭式山城。
山全体に曲輪や堀切を配置しています。
その城域は非常に広く、多くの兵士が駐屯できるようになっていました。


   登った思われる経路


   航空写真
  北側を山陽道が通り遺構は無くなっています

   水晶城 南から
城の呼称である水晶城は、後にこの城地周辺から水晶が産出されたために名づけられたとされます。
文献では石道本城もしくは石道新城の呼称があったことが伺えます。 
水晶城が石道新城の説が有力です。

石内バイパスを挟んで対面には有井城があります。
こちらが石道本城
切り刻まれて遺構はほぼ無いです。

    臼山八幡の石段脇から登城
  まず、神社上の郭に登ります(図の緑線)
独立した郭で見張り台のような役割だったと思います

神社の石垣沿いから登る



    

道が付けられ容易に登れます



 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
   平坦地に出ました

   郭をぐるりと帯郭が回されています

 

    少し伐採されなんとか一周出来ます

   神社を見下ろす 明らかに加工された斜面
  畝状竪堀かも

郭を見上げる

郭上

展望は無し
木を取り払えばかなりの展望が開けます。




 

   神社まで道なき道を降りました・

                                         続く
 

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