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平成の虚無僧一路の日記

歴史は夜作られる 

2010年08月02日 外部ブログ記事
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あり、時々冗談まじりに使われる。たしかに云いえている。

重要な「御前会議」などは、たいてい深夜に行われていた。

日本の合戦は「夜討ち朝駆け」が多い。信長の桶狭間も、
川中島も、関が原も、赤穂浪士の討入も、新撰組の名場面も、
夜のシーンが決め手となっている。

「夜つくられる」という もうひとつの意味は、妻方や娘の
嫁ぎ先などの女系のつながりが、歴史を動かしていることだ。
まさに「事件の影に女あり」だ。

徳川二代将軍秀忠は恐妻家で、妻の「お江」の云うなりだった。
側室も持てなかったが、一度だけ女中「お静」に手をつけて
懐妊させてしまった。妻の「お江」にバレては大変と、穴山梅雪
の妻に託し、さらにその子は信州高遠の保科正光に預けられた。
正光の妻は真田昌幸の娘だ。
こうして、女共の働きで「会津保科松平家」が誕生した。

おかげで正光の嫡子となっていた弟の正貞は廃嫡となり、諸国を
流浪の末、飯野藩主となる。もう一人の弟正重は、松平忠頼に
預けられ、後北条氏の後を継ぐ。そんな数奇な運命の影には、
桑名藩主、久松 松平定勝の妻の存在もあった。

そこで思うのは、徳川家康もそうだが、各大名や、旗本、家臣の
家族構成、縁戚関係まで知り尽くし、世継ぎの決定、次男三男の
処遇、養子縁組、娘の嫁ぎ先まで、口出ししているのだから驚く。

幕末、千葉富津の小藩 飯尾藩が会津保科と関わりのあること
まで、誕生したばかりの明治政府の役人が、よく知っていたと
感心するのだ。
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